恩寵と感謝 について
恩寵とは
"恩寵" という言葉は、霊的な探求をしている人にとっては聞き馴染みのあるものでしょう。そして、なによりもいままさにこの恩寵をこそ待ち望んでいるという人も少なくないかもしれません。恩寵は、神の神秘的な力によって人をよい方向へと導くために起こる感動的な現象というように一般的には理解されていると思います。聖霊の導きという言葉もありますが、これも恩寵のことと考えてよいでしょう。
非二元(アドヴァイタ)などにおいて目指すところとされている "悟り" や "覚醒" あるいはそのお試し版ともいえる "一瞥体験" といったものにまつわるストーリーには、そのような経験に伴って起こる神秘的な現象について語るものが多くあります。実際、わたしもそのような神秘体験は何度か経験しています。
さて、恩寵という言葉はたいてい "神の恩寵" というように神のみはからいとして扱われますが、そもそも恩寵をもたらすのは神だけです。神という言葉が受け入れにくい人は、それをワンネスと呼んでもいいですし、全体性といっても構いません。が、ここでは神という言葉を用います。神とは存在するすべてのことであり、わたしたち人間はその中にある、つまり神の一部です。しかしながら、人間の自我は自分を世界から独立した存在だと錯覚しています。すなわち神から分離した立ち位置にあるのが人間の(低次の)自我です。
さて、ワンネスあるいは全体性であるところの神の本質は「ひとつ」であることです。人間は自らを神から分離していますが、そのために不安や怖れを本質的に抱えています。それゆえ、他者と一つになりたい、他者と一つであると感じていたい、と望むわけですが、その衝動のことを人間は "愛" と呼んでいます。しかし、そもそも分離とは自我の錯覚であり、誰一人として世界から分離などしていません。つまり、"本当の愛" とは「そもそも一つであること」から来ているわけなのですが、これが意味しているのは「愛とは神の性質である」ということです。もっといえば、神と愛はおなじであり、神のことを愛と呼んでもよいわけです。
愛である神の働きは「万物をそのなかで進化させ、やがて神みずからに還ってこさせる」というものです。進化とはより統合的な存在となることを意味します。人間という種族にとっての進化は意識をより統合的にしていくこと、つまり意識レベルを高めていくことになります。この愛の働きは神の根本的な性質ですから、存在しているすべてのものが例外なくこの神の愛を受けています。別の言い方をすれば、存在しているすべてのものは神の愛でできています。この神の愛のもつ、進化を促す性質とその顕れこそが、わたしたちが "恩寵" と呼んでいるものです。ですから、この世界に存在しているものはなに一つ例外なく神の恩寵によって祝福されています。恩寵はあったりなかったり、起こったり起こらなかったりするものではなく、すべてが恩寵なのです。
人間の自我はこの神の愛を受け入れることを拒否し、神の愛から離れて、自らの力によって幸せになれると思っています。このような自我の低い視点からすると、恩寵のようなものは容易に信じがたく、また、自らの意識の曇りによって恩寵を恩寵と気づくこともできなくなっています。一方で自我はその自己中心的な性質から、自らにとって都合のよい状況が発生したときには喜んでそれを恩寵であると主張するでしょう。しかしながら、自我にとっての都合のよい状況とは往々にして利己的で独善的であり、それゆえ進化を遅らせているという点において、そのような形で恩寵という言葉を持ち出すのは誤りです。とはいえ、一時的な進化の遅れさえ、それには意味と学びがあるので、本当はそれもたしかに恩寵ではありますけどね。
自我を超越した観点では、自我にとって望ましくない状況、苦々しい思い、痛い経験、苦しみを味わうことも恩寵です。その経験が、苦しんでいる自我は本当の "自己" ではないという気づきを促す良薬となることはしばしばです。いずれにせよ、恩寵とはいわば太陽の光のようなもので、常にわたしたちを照らしてくれています。個人の意識が晴れ渡っていれば、その人が生きる人生はまさに恩寵そのものとなるでしょう。しかし、プライドや怒りや欲望といったアトラクターの影響によって意識の中に嵐が吹き荒れている人の人生には恩寵はどこにも見当たりません。でも、その嵐は自らが作り出しているものなのですから、その人が自分の意識を晴れさせると選択するだけで、いつでも恩寵はその人を祝福してくれるでしょう。
恩寵と感謝
感謝は人間の意識が表現できる感情のなかでも最良のものといってよいでしょう。なぜなら、感謝の本質とは、恩寵を受けた喜びの表現だからです。
あなたが今まで誰か、あるいはなにかに感謝したときのことを思い出してみてください。誰かが自分になにかしてくれたとか、誰かが自分のことを大切に思ってくれていたとか、災害に遭ったが奇跡的にほとんど被害を受けずに済んだとか、色々とあるはずです。そのすべてに共通する根底的な思いはなんでしょうか? それは、「自分は世界から見捨てられてはいない」というものではありませんか?
そう、つまり感謝の思いとは、そもそも自分が世界から分離などしていないということを思い出させてもらえたときに感じる気持ちなのです。すなわちそれが恩寵を受け入れたときの感情です。恩寵と感謝は切り離せません。ですから、あなたの人生が感謝に満ちたものであるなら、それは同時にあなたの人生には恩寵が溢れているということです。つまり、あなたは統合的に生きているということで、それはそのままあなたの意識レベルに反映されています。
逆に、感謝する機会が少ない人は、分離した自我の自己中心的な立ち位置で人生を生きているということになります。これは恩寵を否定している生き方です。ここで分かるのは、自我にとって望ましくない状況にさえ感謝できるだろうか? という観点が恩寵とはなにかを理解するポイントでもあるということです。
ここでホーキンズ博士の意識のスケールの図表をご覧ください。
意識レベル500 は "愛" のレベルとなっています。このレベルの人は愛が人生の動機になっています。つまり、愛のために生きているといってもいいでしょう。もちろん、ここでの愛は神の愛が反映されたものであり、一般的に考えられている愛というよりは、"慈悲" "慈愛" といったものになります。そして、先ほど恩寵とは愛の性質の一部であると書きましたが、この恩寵としての神のエネルギーが高次の自我へと反映されたものが慈悲であり慈愛です。意識レベル500 における「人生の視点」が "恩恵" となっているのはそういうことです。もちろん、恩恵とは恩寵のことです。これは訳語の違いによるもので、どちらも同じものを指しています。
すなわち、意識レベル500台以上の人物は人生を恩寵そのものとして経験しているわけです。ですから、なにかに感謝するというより、世界が存在していて、そこで自分が生きていること、それ自体に感謝しているのです。この人にとっては生きていること自体が "報酬" です。なぜなら、神の仕事が自分の肉体精神機構を通して行われていることを知覚できるからですね。
ところで、わたしが様々な記事を無料で公開していることについて「なぜ有料化しないのですか?」と聞かれることがあります。これにはいくつか理由があるのですが、その主なものはこの note の「著者について」という固定記事に書かせてもらっています。ここではそこには書いていない理由として、「こうした記事がわたしの体を通して書かれている」ことそれ自体が報酬だと感じているということをお伝えしておきましょう。ただ、理由がいくつかあると言っても、それらは本質的には別々のことではありません。
ちなみにですが、わたしは有料で記事を書くつもりはまったくありませんが、サポートや欲しいものリストからギフトを贈っていただくことは喜んでお受けします。わたしの記事を喜んでいただけたということですから、わたしにとってそれはもちろん喜びです。また、記事が役に立ったと感謝を表現していただけることは、ここで述べているように、その人にとってそれが恩寵であったということです。感謝を形にすることで、なにより感謝している本人が自分自身を祝福しているのですよ🙂
「 I <わたし>」より恩寵について引用
さて、それではホーキンズ博士の「 I <わたし>」より、恩寵についての記述を引用してみていきましょう。
恩寵が全宇宙における絶対的なカルマの法則であるとはどういう意味でしょうか? 先ほどすでに説明しましたが、それは、どんなものも例外なく進化の道にあるということです。ここでのポイントとしては、カルマには個人的なカルマだけではなく、宇宙全体としてのカルマもあるというところです。ほかにも、人類の場合は国家のカルマや一族のカルマといったものもありますし、もちろん人類全体としてのカルマもあります。しかしどんなカルマにせよ、すべては進化に向かっています。
救済とは、限定的な意味では意識レベル540以上に進化することを意味します。また、絶対的な自由とはおそらくカルマからの自由のことで、つまるところ存在が最終的に神へと進化(神へと還る)することを指していると思われます。
わたしたちには "見かけ上の自由意志" として選択する力が与えられています。ですから、その運命がどんな運命であれ、それはその人の選択の結果です。とはいえ実際には、その見かけ上の自由意志でさえほとんど不自由といってよいもので、本人にはそんなつもりはないのに、低い領域にあるプライドや怒りや欲望といったフォースの影響によって人生が狂わされていることはしばしばです。ですから、ここでいう "選択" とはもっと気高い選択です。恩寵の光はつねにわたしたちを照らしてくれているのですから、勇気をもって自己中心的な立ち位置を捨てる選択をしましょうということですね。ちなみに "勇気" は意識レベル200 に位置し、ここから上が統合的でポジティブなパワーの領域、ここより下が分裂的、自己中心的でネガティブなフォースの領域です。
宇宙は愛そのもの、恩寵そのものです。そしてこの愛は個人的な愛ではなく、慈悲や慈愛といったものです。世界はあまねく恩寵である慈愛に満ちています。ですから、誰でも自分の自己中心的な立ち位置を放棄して、本当の自己である内なる神へと祈れば、祈りは必ず聞き遂げられます。内なる神とは宇宙そのものであり、慈愛そのものであり、恩寵だからです。もしも聞き遂げられないとしたら、それは祈りではないということになります。
大切なのは、自我の自己中心的な立ち位置を放棄することです。自己中心的な祈り(のつもりのもの)が招くのは "恩寵の不在" です。ですから、わたしたちはなにを祈ればいいのか、よくよく考える必要がありますね。
とは言ったものの、わたしは親切なので正解をお教えしましょう。正しい祈りとは「感謝の祈り」です。感謝にはそれ自体に恩寵が含まれていることはすでにお伝えしていますが、さらに言えば感謝の伴う祈りは必ず統合的な祈りになるはずです。あらためて繰り返しますが、感謝と恩寵を分けて考える必要はありません。そして加えていうなら、感謝することはそれ自体が祈りであり、自分への祝福(=恩寵)なのです。要するに、感謝は自分で自分に恩寵を与えているということです。
キリスト教的な文化圏においては罪の意識というものが浸透しているため、自分など恩寵には値しないと卑下する形で恩寵を拒否するケースがあるようだと、この記述からは分かります。しかしながら、この日本においてはそういうケースはさほど多くはなく、それよりも逆に、自分を過大評価して恩寵が与えられて当然だと考えている人が多そうです。もっとも、彼らは恩寵などという概念を知らないとは思いますが……。まあ、その場合も自分をいいように評価しているという点ではやはり「汝、裁くなかれ」なんですね。
いずれにしても、自分のことにせよ、他者のことにせよ、なんらかの判断のもとに評価を下すのは、そうすることが仕事である人は別として、極力避けるべきです。現実を創造しているのは自分の普段からの思考や信念や価値観といった観念ですから、他者に下した裁きはいずれそのまま自らの身に返ってくると心得ておきましょう。そうした「裁いてしまう癖」を回避するために有効なのは、ここでも感謝です。感謝は人を選んでするものではありませんからね。
まとめ
もしあなたが恩寵という言葉を知っていて、それを求めているのだとしたら、そのこと自体が恩寵を見つけられなくなっている原因かもしれません。恩寵は待ち望むものではなく、見出して感謝するものです。
恩寵は神の力の顕れですから、たしかに神秘的としか言いようのない現象として現れることがあります。でも、それは恩寵の一面であって、本質ではないということがご理解いただけたでしょうか?
今回は恩寵とともに感謝について書いてみましたが、感謝をしづらくしているのもやはりプライドです。昔から「ありがとう」という言葉には言霊的なパワーがあるので、ありがとうありがとうと何遍も口に出して言うだけで幸せになれるという一種の成功法則? のようなものがありますね。わたしは言霊というものは否定はしませんが、それは形のあるこの外側の世界におけるちょっとしたハックのようなものとしか思っていません。ですが、形から入るとうまくいくことって結構あるもので、1mm も感謝していなくても、ありがとうありがとうと延々と繰り返し言っている内にはやがて感謝できる体質になっていても不思議はないなあとも思うんですよね。
感謝体質になれば、それは恩寵体質でもありますから、幸せになるのは道理です。また、なんにでも感謝でき、またその感謝を即座に表現できる人は当然ながら謙虚にもなっているでしょうから、もしかしたらプライドを破壊するためには「ありがとう」が一番効いたりしてね。
今回はこれで以上です。記事がお役に立ちましたら幸いに思います。また次の記事でお会いしましょう。読んでくださってありがとうございました。
おまけ
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