質問箱への回答㉟『真理は "虚無" ではない、というお話』
インフルエンザが治ってしばらく(二日間ほど)はここ最近ではなかったくらい体調がよかったのですが、案の定というのかなんというのか、その後また微熱が続いています。数年前までは半年に一度くらいの頻度で発熱し、それが数週間続いて治るという感じだったのが、気づいてみると最近では恒常的に37度ちょっとの微熱が続いていて、平熱に戻る期間が時々あるというような様子になってしまっています。詳細な血液検査をしてもどこにも異常はなく、むしろ53歳の男性としては超優良な数値だとかかりつけの先生には褒められています😌 とまれ、おかげで中々働くことができませんが、まあなんとかなるのではないでしょうか。これまでの人生でも結局なんとかなってここまで来ているという実績がありますからね。
今回のご質問
さて、Tokei さんからご質問をいただきました。前回の回答㉞のご質問も Tokei さんからのものでしたので、今回はその内容を踏まえたものとなります。ご質問はこちらになります。
質問箱の仕様で文章が中央寄せになっていて長文だと読みづらいので、こちらに書き出しておきましょう。
それでは早速回答していきたいと思いますが、今回のポイントは "幻想ということの意味" にあります。つまり、わたしや過去のマスター達が言うところの幻想とは具体的にはなんのことなのか? どういう意味なのか? ということですね。わたしはこれまでもずっと、この点については明確に書いてきています。しかしながら、それを読まれる探求者のみなさんは各々の意識レベルでそれを理解しようとします。それゆえ、真理にせよ幻想にせよ、その言葉の指し示しているものがわたしの意図している通りに理解されることは基本的にはあり得ないということを、わたしは知っています。
それでもわたしが書き続けているのは、同じことを違う文脈と異なる言い回しで繰り返し語られたものを何度も何度も読むことで、この理解のギャップが埋まる可能性があるからです。理解のギャップが埋まるということは、読み手の意識レベルが上昇していくことを意味していますが、ジュニャーナ(智慧・知識の道)の探求者が報われるためにわたしが出来ることは、このギャップを埋める可能性を一つでも多く用意することです。
たしかに勉強して得られる "真理にまつわる理解のあれこれ" はただの観念であり、幻想のコンテントであり、幻想そのものです。ただし、Tokei さんは幻想=無意味なものだと誤解しているようです。幻想といいますが、Tokei さんの肉体精神機構は間違いなく存在していますし、Tokei さんの眼前に広がる世界もその実在を疑うことはできません。
わたしや過去の覚者たちが一貫して語っているのは、「分離は幻想である」ということです。真理とは、これも色々に表現することができますが、もっともシンプルにいえば「すべては一つである」ということです。この言葉には「二つ以上(複数)のものはない」という意味も内包していますが、こちらの言葉そのものを標語にしているのが非二元と呼ばれる教えです。
すべては一つだというとき、その一つのものとは "意識" です。意識を非常に精妙な粘土のようなものだと考えるなら、この世界のすべてはその粘土で作られているということになります。原子や分子、タンパク質、恒星や惑星、空間、石ころや木々、水、動物や昆虫、そして人間と、この世界にはさまざまなものがそれぞれ独立して存在しているように見えますが、そのすべてがこの意識という粘土で作られています。空間でさえ意識の粘土でできているので、この世界のどこをみても意識で出来ていないものはありません。意識にはどこにも切れ目や穴のようなものはなく、宇宙のすべては意識で満たされていて、それゆえ宇宙とは意識そのものなのです。
こういう意味で、この世界は一つの意識であり、分離はどこにもないというのが "真理" です。そして、このことが真理と呼ばれるのは、人間は普通、世界をそのようには認識していないからです。人間の基本的な知覚である五感は事物を二元的に捉えることによって世界を認識するように出来ているためこれは当然のことなのですが、人間の五感がそのように出来ているからといって、世界が人間の五感が知覚するままの姿で存在していると考えるのは誤りです。
いずれにせよ、人間は自分のことを他のなにものからも独立(=分離)した存在であると考えてしまう生き物です。ですが、その一方で孤独を恐れ、コミュニケーションを有意義に感じ、他者と肉体的に一つに繋がることに喜びを覚える生き物でもあります。ざっくりというなら、人間の不幸や苦しみの源は、本来分離していないのに分離していると思い込んでいることに端を発する誤った思考にあります。
幻想というのは、この "分離していないのに分離しているという思い込みのこと" を指しています。また、その思い込みから生じるあらゆる誤解もそこに含まれます。
この点で、『ふと、真理をいくらmy宇宙の中で勉強したところで結局それも心の中の幻想のコンテントだよな』という Tokei さんのコメントは、それ自体が分離した幻想であると言えます。ポイントは "勉強する個人" という観点です。真理は「勉強する個人(つまり分離した個人)などいない」ということを指し示します。幻想である "勉強する個人" が真理をつかもうといくら努力したところで、ただただ真理にまつわる知識とそれに関する観念が増えていくばかりです。
真理についてわたしが語るときには、それを説明するための論理をわたしが理解している必要があります。しかしながら、真理そのものは理解によって到達するものではなく、直接知覚するものです。直面するといってもよいでしょう。真理に直面するとき、幻想の個人は消滅します。これがエゴの自己中心性の消滅です。
幻想の個人が消滅するということは、自由意志がないことに直面するということです。いままでは独立した個人として、自分の意志で世界を見、判断し、行動してきたつもりでしたが、それが間違いだったと知るわけです。わたしたちは "生きている" のではなく "生かされている" のだと知るのです。いまのわたしには、自分の肉体精神機構のすべての活動が、わたしのエゴのコントロール下にはなく、いわば「自動的に」動いていることが知覚されています。それどころか、エゴの働きであるところの思考でさえも、エゴそれ自身が行っているのではなく、むしろ自動的に現れてくる思考や感情や感覚をまとめて自我(エゴ)と呼んでいただけであったことが自明です。
そして、自分の肉体精神機構がそのようであるのと同様、他の肉体精神機構にも自由意志がないことが知覚されます。誰にも自由意志はなく、ただ全体性としての一つの意識がまるで映画のようにこうした世界を創造し、そのなかでさまざまな登場人物がそれぞれの役どころに従って自動的に機能しているというのが、わたしが見ている世界です。
このように世界を見るとき、誰にもどんな責任もありません。だって、どの肉体精神機構もそれぞれのプログラムに従って動いているだけなのですから。もちろん、例えば人を殺せば捕まって厳罰を受けるでしょう。それは責任の話ではなく、単にこの世のルールに基づいた原因と結果の話です。その人が他者を殺してしまったことは、全体性のなかで起こるしかなかったことであり、本人にも他の誰にもそれを止めることはできなかったということです。
これは極端な例ですが、もっと身近なところでいうと、怒りっぽい粗暴な人や嘘ばかりつく人や不健康な人や性的に奔放すぎる人など、まあ挙げだすとキリがありませんが、そういういわゆる「厄介な人」たちに対しても、わたしは嫌悪感を持ちません。なぜなら、彼らがそのようであるのは彼ら自身の責任ではないからです。よい人も悪い人もみな例外なくただ生かされているだけであるという理解に立つと、どんな人にも愛を感じます。これが慈愛というものです。
ひるがえって、自分の在りようや言動のすべてにも責任はないと理解されることによって、物事を深刻にとらえることがなくなります。もちろん、さきほども述べたように、自分の行為によって起こる結果は引き受けなければなりませんから、一般的に無責任だといわれるような行為をすることはありません。
このようにして、自分にも他者にも責任がないことが知覚されると、人はもう苦しむことはなくなります。嫌なことがあってもそれを誰かのせいだと思わなくなりますし、自分がやったことを悔やむこともなくなりますから。また、他者になんらかの期待をすることもなくなります。だって彼らには(自分にも)自由意志はないのだから!😆
さてちなみに、この自由意志のなさと責任のなさを知覚することが、いわゆる「カルマからの解脱」です。カルマとは要するに、自分の行動に責任がある=なぜなら自分は独立した存在だから、という思い込み(幻想)の連鎖です。ですからその幻想から解き放たれた人はもはやどんな行為をしてもカルマを新たに作ることがないのです。また、過去のカルマとももう縁がなくなります。
さて長々と説明してきましたが、なにが言いたいかというとこういうことです。つまり、世界はたしかに実存していているが、それが目に見えている通りに分離独立して存在しているというのは幻想であるということです。
そして、この幻想に基づいて生きているがゆえ人間は苦しんでいるわけですが、ということはこの幻想を打破すれば人は幸せになれるということです。探求者が長年にわたって色々なことを学んできて、それでいてなお幸せになれていないのであれば、その人はいまだにこの分離の幻想の中にいるということです。
ですから、霊的探求は無駄ではありません。言えることは、Tokei さんの探求はまだ道の半ばにあるということです。道の半ばにおいては、「こんなことやっていてなんの意味があるんだ? しょうもな!」と感じる局面が多々あります。そんなときに思い出して欲しいのは、意味がないのではと疑っているのも、しょうもな!と呆れているのも、Tokei さんのエゴだということです。そのエゴが黙るまでは、探求は続いていきます。
勝手にでっちあげたというのは誤りです。勝手にでっちあげるのはエゴの仕業ですが、エゴにはなにも創造できません。というより、Tokei さんという肉体精神機構も、その肉体精神機構に宿っている心も、Tokei さんの真我によって創造された Tokei宇宙内の創造物です。
すなわち、Tokei宇宙においては一方においてTokeiという肉体精神機構が創造され、もう一方においては仏陀やキリストやラマナ・マハルシといった聖者の存在とその教えが創造されているのです。これらはたしかにコンテント(=創造物)ですが、コンテントが分離しているというのは幻想ですね。すなわち、両者は無関係にでっちあげられたものではありません。
ですからこう考えてみてください。すくなくともTokei宇宙には、仏陀やキリストやラマナ・マハルシの教えが存在し、その教えについて「こんなんワイの心がでっちあげた幻想やん!?」と考えているTokeiという肉体精神機構が存在していて、これらは一つであるらしいと。そう考えたときに、「いや、考えてみたけどやっぱこんなんでっちあげですわ」となるのか、それとも「なるほど、だとすれば、そうなっていることの意味もまたこの Tokei宇宙の中にあるはずだ」となって探求を続けていくのか、それはわたしには分かりませんが、起こることになっていることが起こるでしょう。
ですから、幻想の中に真理があるのではなく、なにが幻想であるのかを示しているのが真理です。これについては前段で詳しく述べてきた通りです。
これも先ほどの仏陀やキリストやラマナ・マハルシの話と基本的に同じです。ここで新たに言えることは、わたしの語ることがわたしの伝えたいように伝わるかどうかは、Tokei さん次第であるということです。言い換えると、それは Tokei さんの現時点の意識レベル次第です。ひとつアドバイスするなら、エゴの性質やその中身についてどれだけ考えても無駄です。なぜならそれを考えているのが他ならぬエゴ自身だからです。エゴ自身がエゴを超越し、消滅させることは不可能です。なので、探求のあるべき方向性は「エゴの幻想性を調べること」です。エゴがいかに実体のないものであるのかを暴くことです。本当の自分(真我)ではないもののすべてをエゴとみなし、これは本当の自分ではないなと消去していきます。それをやり尽くしたとき、残るのが真我であり、Tokei宇宙の真の創造者です。
これは自分の意識レベルが分からない、と仰っているのと同じことです。ですから、理解したいのであればホーキンズ博士の『パワーか、フォースか』を何度も何度も読むことをおすすめします。
もしもある人のMy宇宙が Our宇宙からガラクタばかりを寄せ集めたでっちあげだとしたら、それが意味しているのはその人の意識レベルが著しく低いということです。わたしが思うに、Tokei さんの意識レベルはそのようなものではありませんが、まだまだ深い分離感の中にはありそうです。
真理がないというのが真理、というのは先ほどのところでも説明しましたが、幻想の中になんらかの真理があるという前提に立っている発想です。真理はちゃんとありますし、それがなければわたしも Tokei さんも存在していません。
現象としてのこの世界に意味はあるのでしょうか? あります。それは、存在しているということです。存在していることにそれ以上の意味を探そうとするのは分離したエゴの性質であり、すべての探求者のすべての質問はこの性質からきています。
さて、「もっと楽しい世界にしといてくれよ」ということですが、楽しい世界とか楽しくない世界というものはありません。単に、世界を楽しいと思っている人と世界を楽しくないと思っている人がいるだけです。すなわち、Tokei さんは世界を楽しいと思っていないようですね。
わたしから言えるのは、「Tokei さんは世界を楽しませようとしてきましたか?」ということです。
すべては一つであり、自分も他者もありません。それは幻想です。つまり、Tokei宇宙においてはすべてが Tokei であり、なおかつそのすべてを創造しているのが Tokei さんです。
であれば、Tokei さんが世界を楽しませようとすれば、世界は Tokei さんを楽しませてくれるでしょう。Tokei さんが世界に対して冷めた態度を示していたら、世界もまた Tokei さんに素っ気ないでしょう。
具体的には、他者にたいして親切にすることからはじめてみてください。人に対しては親切に、動物に対しては優しく、ほかのものに対しては丁寧に接してください。そうすれば世界は Tokei さんに親切さや優しさや丁寧さを返してくれるでしょう。もしそのような世界が好みでない、楽しいとは思わないというのでしたら、この案は却下してください。でも、そうでないならこれは大変おすすめです。
わたしはこの世界はめっちゃ楽しいと思いますよ😉✨️✨️ それではまた。参考になれば嬉しいです。また次回の記事でお会いしましょう。読んでくださってありがとうございました😊