見出し画像

プライドについて(ホーキンズ博士『 I <わたし> 真実と主観性』より)

霊的な探求者の成長を阻む最大の要因といっても過言ではないもの、それはプライドです。反対に、探求者にとって最も有望な資質が「謙虚さ」なのですが、それも当然のことで、なぜならプライドと謙虚さは相反するものだからです。

そもそもプライドとはなんでしょうか。プライドは行き過ぎた自尊心のことで、またの名を虚栄心といいます。そして、その本質は"傲慢さ"です。

ホーキンズ博士が明らかにされたこの意識のスケールの表においてプライドは「175」の位置にあります。意識のスケールにおいて、200以上はポジティブな領域で、199以下(200未満)はネガティブな領域であるとされていますが、見ての通りプライドはネガティブな領域においてはもっとも高い位置にあります。

これが意味しているのは、プライドはポジティブなレベルへと飛躍するための動機として最良のものであると同時に、それ自体がポジティブな領域での成長を阻む最大の要因でもあるということです。意識のレベルが成長してくいためには、より高いところにあるアトラクターによって動機づけされる必要があります。たとえば、欲望(125)や怒り(150)といった動機がその人に生じるとき、深い悲しみ(75)や恐怖(100)のレベルを脱することができるのです。

プライドは、より低いところに位置する怒りや欲望よりも人間を駆動する動機としては強力ですが、非常に自己中心的であり、その態度は依然としてネガティブです。ポジティブな領域のスタート地点となるのがちょうどプライドの直上に位置する「勇気」です。つまるところ、プライドを克服してポジティブな領域へと飛躍するためには勇気が必要になるということなのですが、この勇気とは自分の傲慢さや虚栄心、あるいは不正義を認めたうえでそれを手放す勇気ということでもあるため、意識レベル200を超えることはなかなか難しいのです。

またそれだけではなく、意識レベル200以上のポジティブな領域へと成長した人にとっても、プライドはもっとも近いところにあるネガティブなアトラクターと言えます。これは表を見ての通りですね。

例えば意識レベル350の人物は受容(350)のアトラクターからの影響を最も強く受けており、それゆえこの人の人生の動機は受容であり、この人は人生に調和を見ています。しかしながら、この人に影響を与えているのは受容のアトラクターだけではありません。受容よりも高いレベルのアトラクターからの影響ももちろんあり得ますが、それと同じかそれ以上にネガティブな領域のアトラクターからの影響にも晒されているのです。ですから、この人は基本的に受容的で調和を重んじ、慈悲深い面を持ってもいますが、一方でプライドや怒りや欲望といったものに心を乱されることもままあるわけです。

つまり、ポジティブな領域にいる人でも、プライドの影響を受け続けている可能性は常にあるというわけです。もちろん、まったくといっていいほど影響されていない人もいるにはいます。でも一般的にいえば540のレベルを超えない人々はネガティブな領域(つまり200未満)のアトラクターの影響に常に晒されているはずです。なかでもプライドは、エネルギーとしては他のネガティブなアトラクターよりも強いこともあって、多くの人を支配しています。ですから霊的な探求者にとってプライドについてより深く知ることはとても重要なのです。

また、プライドは怒りや欲望や無気力といった他のネガティブ性とちがって、うまく隠したり別の態度に偽装したりすることができます。それゆえプライドについて深く学ぶと、社会がそれまで思っていたものとは違う原理で動いていることを知覚できるようにもなります。真理の観点では人に自由意志はなく、人々はただ全体性の機能(カルマ)に沿って動いているだけなのですが、このカルマを顕在化させているものがさまざまなアトラクターなのです。つまり、プライドを熟知すれば、人々が自由意志ではなく、単にプライドというカルマによって衝き動かされているだけであることが次第に分かってきます。もちろんこれはプライドだけでなく、賢者や覚者も含めすべての人はさまざまなアトラクターが顕在化させる動機によって動いているのですが、このことを理解、知覚するための格好の教材がプライドなのです。

さて、そこで今回はホーキンズ博士の「 I <わたし> 真実と主観性」の第12章『感情』から、プライドに関する記述を引用してみたいと思います。それでは早速見ていきましょう。ちなみに引用文はすべてが一続きの文章ではなく、ところどころ省略して飛び飛びになっていますが、話の流れ的には問題ないと思います。

プライドにも正常で害のないレベルがあり、それはより正確には「自尊心」や「セルフケア(自己管理)」と呼べるでしょう。これは言わば、最善の方法をとって前進することであり、効果的な努力と達成によって、正常な範囲内に満足している状態です。このようなポジティブな自己イメージは、努力した結果として得られるものなので、決して間違っていませんし、必ずしも自我の肥大によるものではありません。それは獲得されたものなので、現実的な基盤が伴っています

霊的な欠陥と見なされるプライドとは、プライドを振りかざす態度や立ち位置のことを言います。それは傲慢さであり、他者より自分が優れているという思いが、信念や考え、言葉や態度となって表れます。またそれは行き過ぎた自尊心であり、いわゆるうぬぼれです。何らかの成果が基盤になく、労せずして得たものであれば、それは非常に脆いものです

自分が努力して達成したことや獲得した地位に自尊心を持つことは誰にも害がありませんね。このような自尊心を持つ人は他者からも尊敬の目で見られることさえあるでしょう。一方でなんの努力もなく、たまたま運が良かったり、あるいは他人を蹴落として手にした地位や立場を振りかざす人は非常に多いです。このような人はなんの根拠もなく自分を偉いと思っていて、そして他者も自分のことをそのように思って当然だと考えています。このような傲慢な態度は霊的な欠陥と見なされるということですが、今回取り上げているプライドとはこのことを指しています。

プライドは弱いので、いつも自衛しなければならず、そのために「けんか腰」になります。「おごれる者は久しからず」ということわざの中にも、その弱さが見て取れます。プライドは恣意的な立ち位置から生じているので力がありません。それは風船のように膨らんだ自我なので、何かの拍子にすぐに破裂します。プライドは虚栄心なので、お世辞を好みます。虚栄心は、心理的には自己陶酔性が基盤になっているという点で、自己中心性と同じです。問題は、他者に対する思いやりや愛情に欠けることです。

SNS上でも、やたらとプライドが高く、常にけんか腰の人がいますね。プライドを持つほど自信があるのなら誰になんと言われようがどっしりしていればいいのに、と思わなくもないですが、本当に自信があるということは、それは先ほどの引用文にあったように「獲得された現実的な基盤」からくる自尊心なのです。つまり、こういうけんか腰の人たちはそのような基盤の上に立っていないので実は自信がなく、それゆえ常に自分が優れていること、強いこと、偉いことを証明するために他の人にぶつからないといけないわけです。ですから、いっぽうでそういう人がお世辞に弱いのも当然ですね。プライドに振り回されている人は、実はとても扱いやすいです。プライドさえうまく満足させてあげれば、なんでも喜んでやってくれますからね。

ちなみに、けんか腰といえば、わたしのところにメールを送ってくださる人の中に、質問や相談といった体裁をとりながらも、その実わたしを試したり、挑発したりする動機が見え見えの、ある意味けんか腰の人がたまにいますよ😆 そういう人たちに共通する特徴は「自分をすくなくとも意識レベル400台だと思っている」というものでした。たしかに文章はそれなりには知的で、本人がそのように錯誤することも理解はできるのですが、残念ながらこの人たちは理性(400)よりもプライド(175)の影響を強く受けてしまっています。

そもそもわたしは質問箱を公開しているのですから、質問がしたいだけであればそちらに投げるのが普通の発想なのです。そうしないでわざわざメールで挑戦的な質問をしてくるのは、公開された回答で、自分の主張が否定されたり訂正されたりするのが嫌なのでしょう。そういうところにもプライドが見透かせるのですよね。

ちなみに、そのようなメールについてもわたしは丁寧に返事を書いていますが、その回答をシェアできないのは勿体ないことだと思っています。ですので、この記事を読まれた方は質問は質問箱に送ってくださいませ。博士の引用文にもある通り、そういうけんか腰で挑戦的だったり好戦的だったりな人は態度が傲慢であるだけでなく、質問と回答を自分だけのものにすることを当たり前と考えている点において、他者に対する思いやりや愛情が欠けた自己中心的な面が否めません。

さて続きを見ていきましょう。

さらに厳しく追及すれば、プライドは自己存在の「至高の源」としての神に献身することを拒否する姿勢であると言えます。つまりそれは、支配権をめぐって神を相手に密かに競い合っているということです。

これはここ最近の記事で触れてきた「明け渡し(バクティ)」とも関連する話ですね。ざっくり言うなら、明け渡しを阻んでいるのはプライドだということです。バクティ(帰依の道、明け渡しの道)に限らず、ジュニャーナ(知恵の道、熟考の道、理解の道)を行く人であっても、最終的に起こるべきことは自我の明け渡しですから、バクティの実践者のみならずジュニャーナの道を行く人も、その道が成就されるか否かは主にプライドを捨てられるかどうかにかかっていると言っても過言ではありません。

たとえば奇跡講座はわたしの観点では『明け渡し実践ガイド』というべきものなのですが、ワークブックを愚直に実践せず、その内容を知的に理解しようとしちゃっている人が多い印象です。これって実をいうと知性(400)ではなく、プライド(175)が引き起こしている問題なのですよね。つまり、明け渡すかどうかを決めるのは神ではなく自分(エゴ)であるという態度のあらわれなのです。自我に明け渡すことはできません。なぜなら自我は幻想であって行為の主体ではないからです。このような思い違いこそがプライドの仕業なのです。

もしも動機がプライドではなく知性なのであれば、その人は「まずは書かれている通り実践してみよう。理解するのはそれからでいい」と考えるでしょう。それこそが真に知的な態度だからです。

そもそも奇跡講座における『神への献身』とはワークブックに書いてあることに疑問を挟むことなく実践するということです。理由がなんであれ、それをしないのは神への献身を拒否しているということです。すなわち、明け渡しを学びながら明け渡しを拒否しているという奇妙な状況に自らを置いているということです。当然、そのままでは自我が肥大し続けるばかりです。

なお、note には奇跡講座の学習者の方が多いので奇跡講座を例に出していますが、これは他のどんな教えについても言えることは同じです。アドヴァイタ・ヴェーダーンタにおいて「自由意志はない」と教えられて自由意志があると考えられる理由を探してもなんの意味もありませんが、これも神への献身の拒否です。

また虚栄心は、謙虚さを否定することでもあります。というのも、自我は謙虚さを、降伏や劣等感、あるいは屈辱だと誤解しているからです。本当の謙虚さは、屈辱感とは無縁です。誤った謙虚さも、同じ誤解から生じています。真の謙虚さは、正確な評価から生まれ、そこに価値づけはされません。真に謙虚で的確な科学者は、理論を含めた科学的研究方法の長所と短所、限界をしっかりと認識しています。真の謙虚さを持つ人は、たとえ偉大な功績を挙げたとしても、うぬぼれずに深い満足感を得ることができます。したがって、謙虚さを装った虚栄心を持たずに、素直に賞賛を受けることができます。

記事の冒頭でプライドと謙虚さは相反するものだと書きましたが、ここではまさにそのことについて触れられています。実を言えばわたしも若い頃は謙虚に振る舞うことを屈辱的だと思っていました😆が、それは要するに自分のプライドにはなんの根拠もないことを本当は知っていたからです。つまり、ここで言われている表現を用いるなら、不正確な自己評価にもとづいて行き過ぎた自尊心を身に着けてしまっていたのです。当時のわたしにとって謙虚になるということは、その誤りを認め、自分の弱さをさらけ出すことに他なりませんでした。

自己陶酔的な自我が肥大化したプライドが基盤となった人格は、往々にして自らの実績とは無関係に"資格のある"態度をとるようになります。

感情的/心理的に自分がなにをしても許されると思うのは、未解決のままの幼児性や自己陶酔的な自己中心性があるからです。

資格があると思い込む自我の肥大化こそが、わたしたちが社会の中に見る悪の根源だと言えます。それは、あらゆる国内の対立や犯罪の源となっています。

プライドに支配されている人は何事につけ『自分にはその資格がある』と思っています。ついでですので先ほどの奇跡講座の例でいうと、ワークブックを愚直に実践せず、その内容をああだこうだと論評している人はまさに自分にはそうする資格があると思っているのです。

しかし、それは単にその人の自我が自己陶酔して肥大しているだけのことであり、そんな態度をいつまで続けたところで明け渡しは起こりません。書かれている通りにただただやってみることが明け渡しの第一歩なのですから。

同様に、霊的な智識を教えるのにお金を要求している自称マスターの方々も、自分にはお金を取る資格があると思っています。"自分"というものは幻想であるということを教えているはずの人たちですら、こうしてプライドの支配下にあります。

社会全体でみると、例えば一部の政治家や企業の経営者たちの横暴も、彼らにとっては自分に許された特権なのです。しかしこれは彼らだけのことではなく、社会のどの層においても同じようなものです。「何様だと思っているんだ!」と言いたくなるようなことはたくさんありますが、いずれのケースでも当の本人は「俺様」だと思っているのだから言ったところで仕方ありません。

資格があるというプライドは、良心が欠落した人格を形成し、それは犯罪や残忍な虐殺の中に見て取れます。自分には資格があるという思い込みは、犯行を"正当化"するからです。街のギャング・カルチャーを見れば、それが公然と行われており、"侮辱"が殺人さえ正当化していることがわかります。

「あいつは俺を侮辱したdisった。だから殺した。当然だろ? それのなにが悪い? だって俺は"俺"なんだぜ?」

プライドが行き過ぎるとこうなるという話です。

"低い自己評価"が反社会的な行動の原因になっているというのが、社会学的、心理学的、政治学的立ち位置のここ数十年の持論でした。しかし事実はまったく逆で、犯罪者や変質者はたいてい、肥大化した巨大な自尊心を持っているのです。

自己評価が低いならむしろ「自分には資格がない」という態度になるはずですから、これもちょっと考えれば分かったはずのことですけどね。もしかしたら「自己評価が不当に高い」学者たちによって捏造された考え方だったのかもしれません。

プライドは、神のために虚栄心を喜んで明け渡すという献身の精神が得られたときに消滅します。霊的に進化すると、自尊心は必要なくなり、何の意味も持たなくなります。プライドも恥も共に自己を重要視する価値判断から生まれます。「真実」においては、"価値"などどうでもいいことです。すべてはあるがままで何の説明も形容も必要ありません。進化した意識にとっては、世界が考えたり信じたりしていることは、何の真実味も重要性もありません。

このように書いてありますが、しかしこれは簡単なことではありませんね。というのも、献身の精神を拒否しているのがプライドなのですから、プライドが消滅することなしに献身の精神を得ることなどできるのでしょうか?

もちろん、それは可能です。端的にいえばプライドが献身の精神を阻もうとするその力よりも高いアトラクターの影響力に曝露されること、そして曝露され続けることです。

「真実」においては、"価値"などどうでもいいことです。

分離は幻想です。つまり、この世界のどこをとっても、全体から分離した事物などというものはありません。すべては同じ一つのものの部分です。そして価値とは相対的な観念です。あれとこれを比べると、あれのほうが価値がある――。価値とはそういうものです。したがって、あれとかこれといった分離のない真実の観点においては、価値というものは存在しないのです。

進化した意識にとっては、世界が考えたり信じたりしていることは、何の真実味も重要性もありません。

ここも同様です。世界の人々が考えたり信じたりしていることとはすべて、全体性から部分を切り取って、それについて考えたり信じたりしているということです。なにかについて考えるとき、その「なにか」とは全体性から分離したなにかです。なにかを信じるのは、全体性を知覚できないからこそ部分的な情報(なにか)を信じるしかないということです。

それに対し、プライドとはまさに価値そのものであり、しかもそれは「自分に価値がある」というものです。

進化した意識においては自分にも自分の外側にも、価値などありません。つまり、プライドは意識が進化していく過程において自然と消滅するものだということです。言い換えると、プライドを克服するには意識レベルをあげるしかありません。ですよねえ、という話ですが、アドバイスとしてはプライドに反することを積極的にやってみることですね。

具体的には「利他的な行動をとってみる」というのが一つの方向です。そしてもう一つの方向としては「自分にダメ出しをする癖をつける」というものです。これは「反省グセをつける」と言い換えてもよいでしょう。もともと出来る人からすればどちらも当たり前のことですが、プライドの強い人はこれが苦手なはずです。やってみろと言われたところで無理かもしれません。でもこれらは言ってみればバクティのための準備運動のようなものです。

いわゆる霊的なプライドも、その分類システムが違うだけで、地位を獲得しようとすることに変わりありません。霊的な探求者でいることがプライドになっている人もおり、そのような人は、愚鈍な物質主義者より自分が"優れている"と思います。たとえば、謙虚さを誇るという矛盾もそうです。これを回避するためには、誰でも特定の意識レベルをマスターして、次のレベルに行くためにベストを尽くしていると見ることが必要です。

いますよね。霊的な探求者でいることがプライドになっている人。探求をしているということは「まだ分からない」と自分で言っているということなんですから、それがなんでプライドの源泉になるのかちょっと理解しがたいです。まあ、そうはいってもこの社会全体でみれば霊的な探求をする人は人口の1%もいませんから、「人とは違う」ことにコミットしているという優越感を持ってしまう人もいるのでしょうか。ちなみに1%も存在しない霊的な探求者のうち、覚醒に至るのは0.001%以下(※)です。

「パワーか、フォースか」によれば覚醒(600)のレベルに到達するのは1000万から数千万人に一人だそうです。1%以下の霊的探求者のそのまた0.001%は約1000万人に一人という意味ですが、覚醒する人はそれより少ないということです。

(※)

いずれにしても、探求者が非探求者を見下すことのないようにするには、「人はだれでも例外なく意識の進化の過程にあり、進化の速度が早いか遅いかに優劣などなく、誰もが自分のペースで学んでいる」という理解が必要です。このように理解すれば、この人生で霊的な探求をする人もしない人もみな、いま生きている意識のレベルのなかでベストを尽くしているのだということが分かります。すると、自分がいまどの段階にあるとしても、それで卑屈になることもなければ、誰かを見下すこともなくなるわけです。

逆説的なことに、プライドや霊的なプライド、虚栄心に対してネガティブな評価を下し、地位を追い求める人や俗世的な人間を見下すという霊的なプライドもあります。プライドは覚醒にとっては障害となりますが、現実的な成就となれば、人口の大多数を駆り立てるには格好の動機となります。プライドは、後に必要がなくなったときに払い落とせばよいのです。どのみち、内的な充足感には必要ないからです。

ややこしい、というかかなり屈折したタイプですが、「霊的探求者かなんか知らんが偉そうにしやがってからに!わしはそういうやつは見下しておる!」という人も実際にいますね😆 もっとも、このパターンの人はその人も隠れ霊的探求者だと思います。他人が妙なプライドをチラつかせているのが気に入らなくて、自分は決してそういうタイプではないぞと思い込んでいるんですけど、それもある種のプライドだという話です。

こんな風にプライドの持ち方にも色々あるわけですが、ここで記事の冒頭の話に戻ります。例の表をもう一度掲載しましょう。

プライドは覚醒にとっては障害となりますが、現実的な成就となれば、人口の大多数を駆り立てるには格好の動機となります

つまり、意識レベル600(覚醒)を見据えたとき、プライドはたしかに障害なのですが、全人口の75%(※古い情報です)が意識レベル200未満であるこの世界においてプライドはそれ以下のレベルの人たちを鼓舞し行動させる原動力になっているのです。これは重要な理解で、同様に無気力や深い悲しみといったネガティブな領域で生きている人たちにとってはなにかに怒りを覚えるということは生きる力が増進することを意味しているのです。

東洋の霊的な伝統では、人間の精神を含む、宇宙のさまざまな作用を大まかに分類し、サンスクリット語で「タマス」、「ラジャス」、「サットヴァ」と名付けています。タマスの特徴としては、怠惰、欲求の欠如、野心の欠如、不注意、関心の欠如、意欲の欠如、反対、抵抗、拒否、自己中心性、ネガティブ性、窮地、マインドスピリットの貧困、ポジティブな感情の欠如などが挙げられます。なかでも代表的な特徴は、惰性と抵抗、欠乏です。タマスからの脱出はしばしば、願望や欲、あるいは怒りさえもが生じ、そして最後にプライドが生じることによって成し遂げられます。

上の表において、タマスは意識レベル200未満の領域とリンクします。ラジャスは200~499、サットヴァは意識レベル500以上となります。

タマスからの脱出はしばしば、願望や欲、あるいは怒りさえもが生じ、そして最後にプライドが生じることによって成し遂げられます

欲望は125、怒りは150です。そしてプライドは175ですね。すなわち、プライドはタマスから脱するために必要な最後のロケットとも言えるわけです。しかしながら、ロケットというのはただの推進力に過ぎません。目標高度へと到達可能な速度が得られたらロケットは切り離して捨てなければいけませんね。

とはいえ、これもすでに述べましたが、ラジャスの領域に達してもなおプライドがさまざまな局面で足を引っ張ることはあります。もはやただの重りでしかないロケットをいつまでも大事に持ち続けてもそれは害にしかならないわけです。なかでも霊的探求者にとっては、彼が求めている成長(つまりサットヴァとなること)の一番の障害となるのがプライドです。

プライドの問題は根深く、そして強力です。エゴの問題はほとんどプライドの問題といってもいいくらいです。バクティにせよジュニャーナにせよ、それが成るかどうかは努力の質量とともに、謙虚な態度にかかっていると言えるでしょう。

ですから、どなたにおかれましても、いま学んでいる教えがなんであれ、そのことは一旦置いて、それと向き合っている自分がプライドに支配されていないかゆっくりと調べてみられることをおすすめします。もっとも、このこと自体が謙虚にならなければできないのですが。

いずれにしても、それが起こる運命なら、あなたはプライドをすでに克服しているか、これから克服することでしょう。この記事を読んだということは、読むということまではすでに運命の書に書かれていたわけです。その続きが、「読んでプライドに気づいてそれを克服する」となっているか、「読んだが謙虚にはなれなかった」となっているかは「神のみぞ知る」です。

今回の記事はここまでです。読んでくださってありがとうございました。


【おまけ】

(曲は1分25秒くらいから)

みんな大好きマキシマムザホルモンです! 夏になると聴いています(冬には聴かないとは言っていない)。

「ぶっ生き返す」とか「余命伸ばすぞおめえ!」とか、謎のポジティブワードが魅力ですね。好き。

いいなと思ったら応援しよう!

BLACK
記事へのリアクションや記事執筆への励ましのサポートありがたく頂戴します🙏 また、プロフィールにAmazonほしいものリストも掲載しています。こちらもぜひよろしくお願いします!