この世界が基底現実(ベースリアリティ)ではないとしたら?
昨年の秋頃からふたたびnoteで記事を投稿していますが、そこで考えていることの中心は「わたしたちが生きているこの世界(地球といってもよいですし、物質的現実といってもよいです)はなんらかの存在によって創られたものではないか」ということです。
意識の目覚め以降、わたしにとってわたしの自我と肉体は環境にたいして自動的に反応しているだけのものであり、わたしそのものは意識としてそれらをただ見ています。頭の中の思考も、なんらかの印象や刺激をきっかけとして自動で起こったり、あるいは突然なんの前触れもなくある考えが「降りてきたり」するものであって、けっして自分自身で考えているのではないということが明らかです。
そして、わたしがそうなのであれば、それは他のすべての人類にとってもそう言えることです。人々は自分自身が世界と独立して存在していることを疑っていませんが、本当の現実はそうではありません。人は幻想の自己とその人生という映画もしくはゲーム(遊戯)を生きています。これがヴェーダにいう「マーヤー」と「リーラ」であり、登場人物である人間が幻想であるのであれば、その舞台となる世界のほうも幻想であるはずです。
もともと、そのような理解をもっていたのですが、以前は幻想はただ幻想であってそれが幻想であると見抜くことがゴール(ある意味、悟りというのはこれのことです)だと考えていました。しかし、果たしてそうでしょうか? たしかに個人(というものは実存しませんから、ここでは一個の肉体精神機構の意味です)としてのわたしは幻想を見抜くことによって、その軛から解放されたといえます。もう思いに苦しめられることはありません。
でも、それはそれとして、なぜ世界は幻想なのか? なぜこの幻想の世界は苦が満ちていることを前提としているのか? そもそも、いかなる存在がいかなる意図で、いかにしてこの幻想の世界を創ったのか? といった問いへの答えは知らないままです。これらの答えを探すことは、人類が次の段階へと進化するために避けては通れない道であると、わたしは考えます。
さて、そのような目線で世の中を眺めていると、世界がなにものかによって創られたことを暗に示しているようなことにいくつか思い当たります。
そのひとつは自然とわたしたちが呼んでいるものの中には実はすごく不自然に思えるものやかたちが存在していることです。これについては別の記事ですこし触れています。
ふたつ目は、輪廻転生という概念の奇妙さです。輪廻転生というものが本当にあるのか、それともないのかについては、生きているわたしたちには現状、確かめる術がありません。とはいえ、ヒンドゥー教や仏教で広く語り継がれている輪廻転生の仕組みが、臨死体験者があの世で見てきたとして語っている話と符合していることからも、わたしは輪廻転生はあると考えています。
輪廻転生の奇妙な点はたくさんありますが、まとめていえば「あの世」の存在です。死んだ人はもれなくあの世へ行き、生前に関わりのあった家族や友人、知人といった人たちと再会し、つぎに指導霊のような存在と会って、直近の人生でのすべての行いを振り返る機会(ライフレビュー)を与えられるそうです。そして、その結果として次の人生における課題を自ら設定し、その課題をやり遂げるのに相応しい両親のもとに生まれるタイミングを待つのだといいます。※諸説あるうちの典型的と思われるものを採り上げています。
こういうことが本当にあるのだとしたら、これは非常によくできたシステムだと言わざるを得ませんね。すくなくともわたしには、自然にできあがるようなものには思えません。とくに指導霊的な存在については、そこにずっと居るものであるとすれば、それは人間(の霊)ではないでしょうし、ライフレビューを見せることができる能力も尋常ではありません。
ちなみに、あの世は別名アストラル界などとも呼ばれていますが、このアストラル界というのはこの世とそっくりでありながら、物質的ではないのだといいます。物質的でないとは、どんななのだろう? と思わずにいられませんが、量子力学的にみればこの世にしても実はほとんど物質性がないそうです。原子の中はほぼほぼ空っぽで、その中をごくごくごく小さな電子がぐるぐる回っているだけなのですが、どういうわけかそれが硬さや重さをもっているのです。話はそれましたが、これもこの世界が作り物であると判断する重要な手がかりの一つですね。
長々と書いてしまいました。こうした疑問から現在はこの世界の本当の姿とその仕組を探究するのがわたしの興味の中心なのですが、最近なかなかおもしろい本を読みました。それが今回採り上げるリズワン・バーク著『われわれは仮想世界を生きている AI社会のその先の未来を描く「シミュレーション仮説」』です。
シミュレーション仮説は簡単にいえば「この世界は、想像を絶するほど発展した種族(あるいは存在)によって創られたコンピュータシミュレーション上の仮想世界であるかもしれない」というものです。もっとも知られている分かりやすい例をあげるなら映画マトリックスの世界ですね。実際に、この現実世界があのマトリックスの世界のようなものであるかもしれない、ということを真面目に研究している人たちがいます。
著者のリズワン・バークは起業家、投資家、ビデオゲームパイオニア、インディーズ映画プロデューサーという肩書です。彼はわたしたち人類が将来的にマトリックスのようなシミュレーション(その中にいる人達は自分がシミュレーションの中にいることに気づけない)を創造するためにはどのような発想と、それを実現するどんなテクノロジーが必要かをビデオゲームにおける技術史をひもときながら解説していきます。
この解説はとても分かりやすく、実際に、よくできたシミュレーションとはものすごくよくできたビデオゲームのようなものであることが理解できます。ちなみに、最近なにかと話題のイーロン・マスクの言葉も引用されています。
最適化手法というのは、主にコンピュータグラフィックやゲームの画面レンダリングにおいて、たとえば画面上のすべてのドットを一個一個確実に描写するのでなく、同じ範囲にある同じ色のドットをひとくくりにすることによってデータ容量を圧縮し、ハードウェアの負担を減らし、描写速度を向上させる手法のことです。また、量子不確定性とは、量子の位置を確定しようとすると運動量は確定できず、逆に運動量を確定すると、今度は位置が不確定となるというものです。おそらくここでイーロン・マスクが言っているのは、要するに「観測するまでそれは存在しない」という意味のことだと思われます。
天才的エンジニアでもあるイーロン・マスクは、量子の振る舞いはシミュレーションであるこの世界をレンダリングするための最適化手法であると考えているようです。
また、先ほどわたしが触れた「あの世」については本書でも採り上げられています。西洋文明的な、つまり科学的な視点からの考察と東洋の神秘主義的思想の視点からの考察をうまく統合することに成功しているのが本書の素晴らしいところです。
日本政府が2050年までに実現したいと考えているらしい「ムーンショット計画」というものがありますが、これこそ完全にここで述べているシミュレーションのことですね。この話を聞いたときにわたしが思った疑問は「意識をどうやってシミュレーション上に転送するのだろうか?」というものでした。これについてリズワン・バークは意識(魂?)の体外離脱を行うチベットの秘法などを引き合いに出しつつ、下記のように述べています。
これに関しては、わたしは個別化した意識が個別化したままでいるには、一体化する乗り物(この世界ではそれは肉体となります)が必要だと考えています。ですから、肉体の死後にアストラル界へ行くのはアストラル体と一体化した個別意識(これを魂と呼んでもよいと思います)であり、ふたたびこの世に転生する際にはアストラル体がさらに肉体と一体化するものと思われます。
意識をシミュレーション世界(この場合はシミュレーションを行っているコンピュータ上のなんらかのチップになるかもしれません)や機械化された体に転送するためには、個別意識つまり魂の発見(科学的に測定、検知されること)がまず不可欠でしょう。そのうえで、肉体やアストラル体のように、ICチップやその他の物質がこの魂と一体化することを可能にする技術が発明される必要があります。しかし、これらが達成されるなら、わたしはシミュレーション世界に意識を転送したり、人間をロボット化することは可能だと思います。
この本はここ最近で読んだなかでは、一番面白かったです。一見すると、意識の探究とはなんの関係もなさそうに思えるかもしれませんが、実のところ、むしろこれは意識とはなにか? について考えさせてくれるとても優れたテキストだと言えるでしょう。もしかしたら、この記事を書いているのも実はシミュレーション上のNPCかもしれませんよ(嘘です、ただのおじさんです😌)。