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質問箱への回答㉙『慈悲心とはなにか?』

またご質問をいただきました。前回からちょうど一ヶ月ぶりになりますね。昨夜遅くに質問が届いていたので朝、出かける前にいちど内容に目を通させてもらって、それから仕事をして帰ってきてすぐに書こうと思っていたんですが、機種変更で新しいスマホが届いたためちょっと移行作業をしていました。案外すんなりと完了してよかったです。Uber Eats の配達用のアプリは結構メモリをたくさん使うみたいで、配達しながら YouTube Music や Audible のアプリを使っているとだんだん動作が遅くなってきて仕事に支障をきたすことが判明したので、買い替えを決めました。古いスマホはちょうど3年間使っていたのでまあどのみち機種変更のタイミングではありました。

そして一段落して、いまこれを書いています。実をいうと質問への回答を考えるのに時間はほとんど必要なくて、たいていの場合は質問文を読み終えるともう回答が頭に浮かんでいます。それはあたかも、わたしの顕在意識が考えるのではなく、潜在意識上の人が回答文を思考として送ってくれているかのようです。かのようです、というか、事実そうなんですけどね。

真理は直接経験であり、客観的な真実です。真理はなんらかの理論として語られるものではなく、真理についての「わたしの考え」とか「あなたの考え」というものもありません。真理は明らかなものです。それゆえ、質問が真理にまつわるものであるなら、真理を直接経験した者にとっては質問と答えは一つ、つまり質問それ自体に答えが含まれていることが分かるのです。

一方で真理を経験していない探求者にとって真理は残念ながら「信じるしかないもの」です。バクティ(帰依の道)がなぜ神やグルの教えを100%受け入れるように要求するのかというと、自我には真偽を識別することができないから、そうするしかないし、そうするのが最善であるからです。しかし、そこで障害となるのが探求者のプライド(傲慢さ)。傲慢であるということは、信じるべきものを信じる能力に恵まれていないということです。ですから、プライドの高い人にバクティは向いていません。ジュニャーナもプライドを退場させるほどの知性が必要ですから、これも向いているとは言えないでしょう。とにかくプライドの高い傲慢な人は探求などやる前にボランティアでもやったほうがよいです。

とはいえ、人が神と呼んでいるものにも色々ありますし、ましてやグルとなれば玉石混交どころの話ではありません。ですから、探求者にとっては神はともかくどんなグルに巡り会えるかがいちばん大事な話です。しかし、自分で探し求めるにせよ、人から噂として伝え聞くにせよ、どんなグルに導かれていくかもその人のカルマ次第であり、また意識レベル次第でもあります。

しかしながら現代ではキネシオロジーテストによって、そのグルから学ぶべきかどうかを簡単に判定できます。キネシオロジーテストを実施するにはちょっとした手間暇が必要ですが、ことの重大さを鑑みれば、その手間隙を惜しむのは愚かなことと言えるでしょう。わたしは誰の師にもなるつもりはありませんが、誰かがわたしを師だと思うことは自由です。ですが、わたしも例外とせず、わたしの書いていることを鵜呑みにしてよいかどうか、テストしてみることを推奨します。

前置きが長くなってしまいましたが、言いたかったのは質問への回答よりもこうした前置きや記事の末尾に添えているおまけを書くことのほうが時間が掛かるということでした😆

さて、今回のご質問はこちらです。

ご質問を要約すると、『さまざまな局面においてネガティブな事物に遭遇すると辛い気持ちになり、居心地が悪くなって避けてしまう』ということについてですね。

人間が生きているこの物質的な世界(この世)の大きな特徴は、ピンキリといってよいほど高低さまざまな意識レベルの人々が一緒に暮らしていることです。それによって人生にはさまざまなドラマが起こり、すべての人がその経験から学んでいます。つまり、この世とはそのような経験と学びの場であるということです。

経験と学びの場であるこの世は、見かけ上の分離によって構成されています。そこには惑星があり、陸地と海があり、岩石があり、植物がいて、動物がいます。それらすべてが独立して存在しているかのように見えます。そして、その世界でわたしたち人間は見かけ上の個体としての肉体精神機構に宿り、人生を生きています。そのように見た目からしてこの世界は分離的にできていますが、さりとて植物や動物たちが人間のように分離を経験している(=二元性を経験している)わけではありません。人間にとってのこの世が分離状態にあるのは、人間に備わった知覚の仕組みがそもそも二元性を基盤にしているからなのです。これについてはこちらの記事をお読みください。

いずれにせよ分離があり、二元性があるからこそ、人それぞれ意識レベルの違いがあるといったことも起こり得るわけです。ですから、ある程度まで意識レベルが高まった人の目にはより低い意識レベルの人たちの営みがネガティブなものとして映り、居たたまれない気持ちになって忌避してしまうことは当然のことです。質問者さんは

そのような出来事に接したら、避けることに身を委ねて良いのでしょうか
※避けると分離を強化するのではないかという懸念があります

と書かれていますが、先ほど述べた通り、そのような出来事を目撃すること自体がそもそも分離ゆえのことなのです。しかしながら、ほとんどすべての人たちが分離という観点を持ってはいません。分離しているという観点は、本当は分離などないということがすくなくとも仮定されているからこそ出てくるものです。

質問者さんは分離を目撃し、そしてこれを忌避しているが問題はあるのか? と気にしているようですが、実際問題としてネガティブな事物には意識レベルを下げようとするという意味で悪い影響力がありますから、それはむしろ避けなくてはいけません。テレビは極力見ないに越したことはありませんし、議論は加熱しすぎるとただの口論にしかなりません。ですので、質問者さんの対処の仕方は正しいといえます。

ネガティブなものは避けなければいけません。ただし、それを憎み嫌うのではなく「ひらりと身をかわす」ことです。これについてはトランサーフィンのこの記事から続くいくつかの記事も参考にしてみてください。ポイントは過剰ポテンシャルと重要性です。

ここではトランサーフィンの内容には立ち入りませんが、ネガティブなことに敏感になりすぎ、そのことについて過剰に考えすぎると、そのことがあなたにとって "重要なこと" になってしまうということです。人は自分が重要だと考えていることとは容易に一体化してしまいます。当人はネガティブな人物でなくとも、他のネガティブな人々の振る舞いについての思考と一体化してしまうと、やがて意識レベルを下げてしまうことになるでしょう。意識レベルを下げるということは分離を強化するということと同義です。

つまり、ネガティブな事象を忌避することは問題ありませんが、そういった事象について考えすぎると分離を強化してしまうということです。嫌なことを見たり嫌な出来事に遭遇しても、その状況を深刻にとらえず、淡々として目を背けたり、そこから立ち去るようにしましょう。これが質問①への回答となります。

さて、次はこちらです。

②その出来事で辛い気持ちになる理由を考えた方が良いのでしょうか?
※理屈付けをすることで解決するのか疑問があります

辛い気持ちになる理由の一つは、悲惨な目に遭った人や、オリンピックで金メダルを逃した敗者への同情からでしょう。自分がそのような立場に置かれることを思うと居たたまれないのは当然のことでもあります。

では、議論が白熱して双方が感情的になっているときに辛くなるのはなぜでしょうか? 感情的になっている人はその感情と一体化していて、冷静さを失っています。一方で冷静さを保っている質問者さんはその人を見て「我を忘れているなあ」と感じているのではないでしょうか?

「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。

(ルカ23:33〜34)

この聖書の記述をわたしはよく引用しますが、この一文で言われているのはわたしたちには自由意志がないということです。

人間は、人間意識のフィールドに存在しているアトラクターの影響に言動を支配されています。また、どんなアトラクターの影響に晒されるかは生まれ落ちてきたときのカルマによって決まります。さらにカルマはほとんどの人にとって人生のすべてを支配しています。そうしたことの全体像を "運命" といってよいでしょう。もし自由意志があるのなら、欲望や怒りやプライドといった低いアトラクターの影響を排除することは自由にできるはずです。自由意志はないというと反発する人も、自らがカルマや運命に翻弄されていることは認めざるを得ないでしょう。

自由意志がないのは意識レベル700以上の賢者でもおなじです。違うのは、意識レベルが高い人ほど、自分にも他人にも自由意志がないことを深く理解しているという点です。イエスの目は、誰のどんな自由意志も見ることがありませんでした。つまりイエスには、彼自身を磔にしようとしている人たちのその行為でさえ、それは彼らの自由意志によるものではなく、ただ単にカルマと運命に衝き動かされているだけなのだと言うことが分かっていました。だからイエスはこう考えたのです。

「彼らにはなんの責任もない」

だからこそ、イエスは彼らのことを赦すように神に請うたのでした。このイエスの言葉は、イエスの慈悲心のあらわれです。

慈悲の "悲" とは悲しむこと、すなわち他者の苦しみを理解し、それを助けてあげたいと願う心です。慈悲の "慈" とは他者が喜ぶことを願う心です。すなわち慈悲の本質は "他者の意識レベルを高めてあげたい" という心です。

そのような心が湧き起こるのは、イエスがそうであったように、高い意識レベルの領域へと到達した人にとっては、人々が自由意志ではなくただ単にカルマによって衝き動かされて生きていることが明らかだからです。誰にも自由意志はないので、誰にもどんな責任もありません。であるなら、人々のネガティブな言動や、その結果として起こるさまざまな悲惨な出来事は、批判や憎しみの対象とはなりません。そうした人々も意識レベルを高めることができさえすれば、やがては自分がなにをしているのか自分で気づくことができるようになり、そうなればネガティブな言動を慎むようになることでしょう。慈悲心とは、そうしたことを受容する心のことです。

質問②への回答としては、回答者さん自身が辛い気持ちになる理由をいちいち調べてみたところでとくに得られるものはないでしょう。ただ言えるのは、辛い気持ちになるのは回答者さんが自らを分離独立した行為者であるとみなしているからです。

やってみていただきたいのは、その辛い気持ちを慈悲心へと昇華させる努力です。そのためには、慈悲とはなにかをより深く学んでいただく必要もあると思いますが、なにより大切なのは今しがた説明させてもらった「自由意志のなさ」と「責任のなさ」について考えていただくことです。

また、もう一つには、真我と呼ばれるところの一なる意識であるわたしたちは誰一人生まれていなければ、誰一人死ぬこともないということを知ってください。悲惨な出来事も全体性であるところの一なる意識が自身のなかに学びのための経験として生み出しているものです。このことも中々理解できることではありませんが、わたしが書いてきた記事をすべて読んでいただければ、わたしがなにを言っているのかいずれ分かると思います。

さて、最後にまとめてみましょう。まず、ネガティブな事象に対してはそれに重要性を与えることなく華麗にスルーすることです。日常的な対処としては、これでよいでしょう。さらに、慈悲心を身につけていただく努力を推奨いたします。慈悲心を身につけていけば意識レベルは高まっていきますし、意識レベルを高める努力を続けていけば慈悲心は自然に身につきもします。

回答者さんが求められていた「意識レベルを高める」という観点での回答としては、このようなものになります。お役に立ちましたら幸いに思います。それでは今回の記事はこれで以上となります。

お読みくださってありがとうございました。またの質問をお待ちしていますね。


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