知的インフラとしての本屋

街には本屋がなきゃいけない。検索することすら思いつかなかったような本に出会い、ジャケ買いをして、そのお店のブックカバーを付けたまま読むような体験が、日常の中にあるといい。もちろん、ネットで書籍を買うことを否定しているわけじゃない。自分が望んでいるのは、両者の豊かな共存だ。どうしても必要な急ぎの文献は、ネットで買えてさっさと手元に届いてほしい(もちろん電子書籍でも)。同時に、まだ見ぬ本との出会いを求めて、小さな旅をする本屋もないと困る。欲張りだけどそれが本音。

日本は(なんていう大きな主語は、できたら使いたくないけど)、文化をインフラだと思っていないフシがあって、経済原理の元で淘汰されるものは、すなわち必要ないものだと考えていそうだ。だから本屋の存在も守られることなく、その数はどんどん減っていっている。住んでいる街に一軒の本屋もない地域が珍しくない。……これがどんなことか、きちんと想像したほうがいいのだと思う。

インターネット上で出会えるのは「そもそも存在を知っていたもの(もしくはその周辺)」に限られる。まったく知らないことを検索できる人はいない。だから、仮に本屋のない街でネット環境に恵まれていたとしても、出会えるものの量に限界があるんじゃないか。あるいは、そもそも紙の書籍を手に取る習慣のない子どもが、大きくなってから本を読もうと思うだろうか……。

知らないものに出会う場所、知的インフラとしての本屋という存在は、もうちょっとその存在を保護されてもいいんじゃないかと思う。書店員によって本の選び方も違うので、優秀な店員のいるところは、陳列それ自体がもう優れている。見ているこっちで勉強になるような並べ方をする店もあり、それはそれ自体、客の教育になっているからすごい。

図書司書や書店員は、ある意味、その街の知的レベルを担う役割を果たしているわけで、軽んじていいところではないと思うんですよね……。そういう必要性を、経済原理しか頭にない人にどう伝えたらいいのか。こういう「曖昧なインフラ」=ないからって人は死なないけど、文化は確実に死ぬような施設を、もっときちんと保護していけないものなのか。

今のところ自分にできるのは、できるだけ本屋さんで買うようにするくらいのことだけど、地域を文化的に発展させる役割を担う必要設備として、書店が認識される世の中になってほしい。最近は雑誌「MOSTLY CLASSIC」を店頭で見て買った。ショスタコーヴィチが特集されていてなかなかよかったけど、これをアマゾンで探そうという気にはならなかっただろう。こういうことがあるから、本屋が消えたら困る。消えたら困るんだよ。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。