もみあげ
もみあげって別にいらなくないか?
昨日の朝、鏡を見てそんなことを思った。右のもみあげを手で隠して、なくしたときのことを想像する。たしかに、ないほうがすっきりしてて、きれいに見えた。
その昼、さっそく友達にこのことを主張し、最初から切ることに積極的だった私は、自分のもみあげをその場で切ってしまうことにした。
どうなるものかとやや期待を膨らませながらはさみを入れたが、思うようにはいかず、切ったところがぱっつんみたいになってとても不格好だ。
そのとき友達が、縦にはさみを入れて梳くように切ればきっとうまくいく、というので実践してみた。すると、おさまりがいい。なるほど、持つべきはやはりいいアドバイスをくれる友である。
一通り落ち着いたように思われた私のもみあげだが、その夜、帰宅して、お風呂に入ったときに鏡を見て考える。
もみあげって別にいらなくないか?
確かに短くしてきれいにはしたが、いらない、かどうかはわからない。それに、短く、薄くできたのだから、きっとなくても大丈夫なはず。右のもみあげを手で隠して、なくしたときのことを想像する。もっときれいになるかはわからないが、なくても似合いそうである。早速私は剃刀を手に取り、右側の残っていたもみあげを全部剃ってしまった。
鏡を見て、右半面の不格好さに驚く。私は思わず笑ってしまった。もう、もとに戻すこともできないのに。あんなにきれいに見えた左のもみあげも、全部なくした右側のせいで、不釣り合いで不格好だ。剃刀は手に持ったまま、でも、左のもみあげも同じように剃ることができなかった。人はこれを未練と呼ぶのだろうか。
人はみんな、左のもみあげも早くなくしたほうがいい、似合わないから、と言う。
私はひとり、右のもみあげが生えてくるのを待つが、もうきれいには生えてこなくて、髭のように不格好に生えた髪をすぐに剃ってしまう。
もうどうすることもできないから、開き直って私は言う。でも、それは、ないほうがいい、とかじゃなくて、気にしないふり、無関心なふりをして強がってるだけの意味。私は知ってる。
もみあげって別にいらなくないか?