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言語化は万能じゃない

最近、どうも「言語化」、つまり自分の感じたことや考えを言葉にすること、が流行しているように思う。書店にはその類の本がたくさんあるし、noteのおすすめ欄にも、言語化についての投稿が溢れている。背景には、多様性を強要されて迷子になっているアイデンティティをはっきりさせたいとか、仕事のコミュニケーションを円滑にしたいとか、そういうニーズがあるのかもしれない。(推測でしかない)

かくいう私も言語化がしたくてnoteをやっているが、言語化を持ち上げて神格化するかのような世間の風潮には、違和感を覚えてしまう。言語化という手法は、必ずしも完璧なものではない、と思う。

というのもおそらく、
①見切り発車の言語化は、思考を短絡的にする
②言語化には体力を使う
③そもそも複雑な物事は言語化しきれない
という、自戒みたいなものが自分の中に横たわっているからだと思う。どのタイミングでそれが形成されたのかはわからないが、言葉は慎重に扱わなければいけないという意識が強い方なのかもしれない。


個人的には、思っていることを無理に言語化すると、その瞬間の解釈に思考が固定され、本来の複雑な感情が失われてしまうことが多い。

例えば、「なぜマックに頻繁にいくのか」を考えるとする。
「安い」
「家から近い」
「お昼ご飯を作るのが面倒」
「友達と話したい」
「机の高さがちょうど良くて作業しやすい」
「割と景色がいい」
「夜間営業している」
「集まる人の雰囲気が好き」
など、いくつもの理由が思い浮かぶ。
しかしながら、「頻繁にマックに行くこと」の"正確な"モチベーションは上記のすべてかもしれないし、そのうちのいくつかかもしれないし、それぞれが異なる割合を占めているかもしれない、つまりとても複雑に絡み合っている。その全てを言語化するのは難しいと思う。

そして複雑なものを言語化するのはとても体力のいることであり、人の感情は常に移り変わっていくものだ。だからこそ、自分の感情の枝葉を切り取って抽象化してしまう。そうしていくうちに、そのわかりやすい感情が、自分の中で真実として固定化されていく。

それが「なぜマックに頻繁にいくのか」だったらいいが、人間関係のこと、キャリアのこと、恋愛のこと、自分の性格のことなど、複雑極まりない物事について見切り発車で言語化し、思考を固定してしまうのはあまりにも勿体無い気がする。


とはいえ、意見を誰かに共有する、考えを整理する、という言語化の効能は捨てがたい。だからこそ私は、言語化のリスクとメリットの両方を理解しながら、慎重に扱いたいと考えている。し、時には言語化せず、心に抱えた曖昧なグレーゾーンをそのまま大切にして、直感で突き進むことも絶対に忘れないようにしたい。


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