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書評『邪悪なる大蛇』ピエール・ルメートル著 橘明美・荷見明子訳(文藝春秋)

 年を取ることは悲しく切ない。コンビニでいきなり怒鳴り散らす初老の男性や、年とともに意地悪さを増していく女性。あなたにも思い当たる人はいないだろうか。老いとは人の本性をむき出しにしていくことなのかもしれない。
 手練れのミステリー作家ピエール・ルメートルの『邪悪なる大蛇』(橘明美・荷見明子訳・文藝春秋)には認知症の兆しが現れつつある女性が登場する。パリの街角で犬を連れて散歩中の男の前に、44マグナムを構えて立ちはだかる六十三歳のマティルドだ。このやたらに物騒な彼女はいったい何者なのか?
 マティルドは戦時下のフランスで対ナチスのレジスタンス活動に従事。時を経て、夫の死後、レジスタンス時代の司令官アンリに誘われ、殺し屋稼業につく。アンリが彼女をスカウトした理由は、迷いなく正確に敵の命を仕留めてきた数々の実績だ。殺し方は、仲間も震え上がり、殺しに快楽を感じているのではないかと疑うほどに、冷酷無比。現在は、パリ近郊でダルメシアン犬のリュドだけをお供に暮らしている。
 そんな彼女の様子が最近何やらおかしい。整理好きなのに部屋は散らかり放題。そのうえ、一度殺しで使用したら必ず処分しなければならない拳銃が家中にごろごろしている。殺しの指令を受け取るいつものやり方がうまく思い出せない。と同時に頭にかっと血が上ることが増えてきた。いっぽうで、長年あたためてきたアンリへの思慕はコントロールができずに募るばかりだ。
 さて、物語というフィクション世界の中でも、ふつう読者は、安全ロープのような存在を必要としているものだ。その役割は、たとえば正義感の強い朴訥な刑事や、実直にささやかな暮らしを送っている市井の人といった登場人物が果たしてくれる。このロープが切れないという暗黙の約束があるからこそ、読者は物語を楽しむことができる。そう、たとえば愛犬家が「本作では犬は死にません」という注意書きを見てはじめて、安心してバイオレンス映画を楽しく観られるように。
 が、相手がルメートルともなると安心などしていられない。本作では半ばにも達さないところで、あなたは息を呑み、頭を抱えることになる。裏切られたと思う。あまりのことにアンモラルな笑いもこみ上げるかもしれない。それでよいのだ。笑いは理不尽さを、あるいは、老いという切なさを乗り越えるための処方箋でもあるのだから。

想定媒体 毎日新聞「今週の書評」欄(22文字46行のスペース)
本文のみの字数 22文字×46行(967字)

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 2024年11月16日、豊﨑由美さんの「翻訳者のための書評講座」に参加しました。課題書となっていたルメートルのミステリーで書評を書きました。
 これまで本講座で6作書評を書いてきましたが、豊﨑さんから高評価をいただけたのは初めてのこと。本当に嬉しかったです。
 次回も頑張ります!


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