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違和を感じたときの心得
過日、FBで以下のような投稿をした
僕の立場としては立花氏の言説をすべて肯定するものではありません
僕の立場としては立花氏の言説をすべて肯定するものではありません
しかしながら、テレビ報道の在り方や各マスコミの報道、記者の在り方、ジャーナリズムとはなんであるかと考えたとき、もはや報道はAIに任せた方がいいのではないかと思うほどにバイアスや偏見や立ち位置の位置エネルギーによって情報が一次情報からマスにさらされるときにこちらがわざわざ一次情報を確認しなければならないほどに、ゆがめられていると感じます。感じるがあって考えて、そして思うのです
これがもっとも大事なことで、違和を何に感じるのかがスタートであって、感情としてどう感じるかではないということ
僕は常に違和感を探しているわけではありません
しかし、日に日に違和は重要だと感じ、探すは常にどちらの言い分も聞くことで得られ、磨かれる感覚というものがあるのだと思います
はぁ、なにがどうしてこうなったんだろう
考えるのは面倒でも、考えないとバカになる
世の中にはいろいろな主張があり、ひとつの事実から様々な情報が流れる。
この前提をまず念頭におく必要があると思うのです。
ですが、この前提はどうやら一般的ではないようです。
様々な情報があり、その中には嘘と真実が混じっている。
どういうわけかこちらの方が主流なようで、特にマスコミはこの立場をとるようなので、そこは大きな問題だと思うのですが、どうなのかな?
嘘というのは意図的なものと誤認とが混じっているし、嘘とされることには事実と虚偽が混じっており、事実に関しては立場により解釈が異なる。
よって嘘と真実が混じっているというのは客観性のある事実であると同時に、そこをマスコミとSNSではSNSのほうが嘘が多いという主張に繋がる根拠としては乏しい。貧弱だと言える。
なぜそう言い切れるかと言えば、大手メディアとSNSではリーチする数が違う。youtubeの動画再生回数がどんなに上がろうとも、それは見ようと思う人が見るものであって、テレビの電源を入れれば見ることができるテレビ報道とは「あり方」が違っている。
たとえばテレビ報道がSNSの嘘の情報や非常に暴力的な書き込みを番組内で紹介する。それはSNSを使っている人にとって「そんなひどい情報もあるが、無視している」としても、テレビで取り上げたことによって1が10にも100にもなる。
そもそもリーチしないはずの書き込みが拡散される。これは仕組みであってそれが悪だとは言わない。
そのような力や仕組みを持っている側はその使い方に慎重になるべきだと考えるが、さて、どうなのか。どうなっているのか。
自分がさらされる恐怖
これまでテレビの報道が一般人にファクトチェックされ、それが数万、数百万の人にリーチすることはなかった。あるとすればテレビで報じられない内容を週刊誌がすっぱ抜くとかだろうが、それもメディア対メディアの話である。
ここで確認しておきたいのは雑誌メディアがテレビと同じような記事を書いていたら存在意義がなくなるわけで、今のメディアの関係というのは新聞メディアや雑誌メディアが取り上げたことで話題になりそうなネタを制作会社に依頼してワイドショーで使うボードやらニュースで使う映像を制作し放送する。
つまり、テレビは一次取材をしていない場合が多く含まれることが想像できる。事実は知らんが、この想像が間違っているとは思えない。
だから上記のような解説動画をチェックする。こういうこともあるのだと知り、メディアの流している情報を自分の目で判断する。
そういう人がネットが一般化して増えてきている。テレビメディアは初めて「情報が正しいのか」を視聴者にチェックされるようになり、実は一次情報をろくにチェックしていない案件もあるので、恐怖を感じているのだと思う。
自己防衛は罪ではない
だからと言ってオールドメディアは信用できないとかオワコンだみたいな風潮をいいことだとは思わない。思わないが前述したとおり、いくらSNSの声が大きくなっているからといて、大きな組織にかなうはずもない。
ゆえに無視すればいいのだと思うのだが、さて、無視できないような事件が相次いだのも事実だ。
兵庫県知事選挙にまつわる様々な事象は複数名の命が失われていることから、それが責任論に発展するのは当然だろう。世論とはそういうものだと思っている。
しかしそこに具体的な犯人、誰が責任をとるべきだというのは無理な話だ。起きたことの事由はもっと抽象的かつ複数の要因が考えられる。誰かひとりの行動がきっかけだからと言って、その人がすべての責任を負うというのは道義的にも司法的にもあり得ない話だ。
さらにことの発端を考えたとき、知事のパワハラ疑惑をテレビが報道したことがきっかけであることに多くの人が気づいていないように思える。
知事と議会というのはそもそも対立構造が起きやすく地方によってその状況はさまざまであると認識している。
テレビはそのような疑惑が生じていることを報じるのはいいが、そこに時間を費やすほどにその情報には公共性があったのだろうか。
亡くなった県議の委員会での発言の中には事実として否定されていることがあり、場合によっては虚偽の発言を行ったとして訂正を求められる案件があるが、そのことを報道しているメディアを僕は知らない。
それこそ責任の所在は具体的であるにも関わらずである。
特に前述のように一次情報をチェックする体制が万全とはいいがたく、地方メディアが取り上げたことを最大限拡大解釈で報道したことに対する批判は受けるべきだと思うのだが、さて、そんな話はあまり聞いたことがない。
よってテレビ側が批判される前に自己防衛としてSNSの負の部分を拡散するのは理解できる。それは先日のフジテレビの会見を見ても、組織だろうがなんだろうが自分が矢面に立つようなことに対しては自己防衛するものである。
信頼の失墜ほど怖いものはないはずだ。
罪のないことの罪
金にならないことでも引き受けたことは最後までやり遂げる。それは損得ではなく、信義であり、子供はそこで諦めてもいいが大人は大人だからこそそれをやり遂げる。
これは大人の矜持であり、力のあるものの態度なのだと僕は思う。
自己防衛が罪ではないからと言って、それを振りかざすのは暴力といってもいいのではないか。
約束が違うことは裁判してでも白黒をつけて、しっかり金をとるというのは正義であっても、正論であっても力を持っているものは自制すべき、そのほうが恰好がいいなどというのは、古い考えなのだろうか。
そのわりに、メディアのトップにいる方々はいい歳をとられているのだからもう少し格好のいいところを見せてくれてもいいように思うのは、僕が未熟な証拠なのだろうか。
違和を感じる
いずれにしても僕にとってオールドメディア対SNSなどという論調は違和でしかない。もしネットメディアをテレビが否定するのであれば、おもしろ動画を垂れ流すだけのバラエティ番組やワイドショーで可愛いペットの動画を紹介するのは、どんな矜持で視聴率を稼いでいるのか興味はないが、弁明くらいはきいてみたいものだ。
なんか違う気がする、おかしい気がすると視聴者がテレビ報道を見て感じる違和というやつは、はたしてSNSが嘘をばらまいてそれを信じたがゆえに起きている病のようなものなのであろうか。
たぶん、僕はバカではない。どんな情報も鵜呑みにしないほうがいい。
そもそも鵜呑みという言葉自体はずっとずっと昔からある言葉なのだ。
違和を感じたとき大事なことは一次情報の確認とそれを様々な視点から分析している人の話。そしてそれらを丸々信じ込まずに自分で判断し、行動すること。間違ってもいいのである。大事なことは自分で判断したかどうかなのだと僕は考える。
間違いは正せばいい。訂正を適時、的確に行える力は戦場では常に求められることだ。
彼を知り己を知れば百戦殆からず
孫子曰わく、
兵とは国の大事なり。
死生の地、存亡の道、察せざるべからざるなり。
故にこれを経るに五事を以てし、これを校ぶるに計を以てして、其の状を索む。
一に曰わく道、二に曰わく天、三に曰わく地、四に曰わく将、五に曰わく法なり。
道とは、民をして上と意を同うし、これと死すべくこれと生くべくして、危わざらしむるなり。
天とは、陰陽・寒暑・時制なり。
地とは、遠近・険易・広狭・死生なり。
将とは、智・信・仁・勇・厳なり。
法とは、曲制・官道・主用なり。
凡そ此の五者は、将は聞かざることなきも、これを知る者は勝ち、知らざる者は勝たず。
これはすでに周知の兵法であるのだから、自分も知っているのなら相手も知っている。そう考えて物事を見るのであれば、違和がいったい何なのかを高い精度で知ることができるのではないだろうか。
完璧な人間などいない。当たり前に完ぺきな組織などないのに、メディアが常に正しいとは限らないし、新興勢力は常に問題を抱えている。
情報とは武器である。攻撃手段にもなるし、防衛手段にもなる。そしてもう一つの側面は正義と悪という二元論で語るとき、武器はもっとも危険な状態にある問うことだ。
これはたぶん戦争なのだろうと思う。
かつて日本の武将は「貧乏人には暇を与えるな」と言ったとか言わなかったとか。しかしこれは真理だと僕は思う。
新聞を買って読まない奴がネットを使って情報を拡散している。今の貧乏人にはそれができる。
これは誰かにとっては由々しき事態であり、誰かにとっては希望であるのかもしれない。
僕はどちらでもない。なぜなら歴史を学べば、そのようなことは繰り返されている普通のことでしかないと知っているからだ。
心得~猫のごとく振舞え
違和を感じたら古きに学び、縦の線を引き、多くの人の話を聞いて横の線を引く。そして自分がもっともらしいという点を見出せばいいし、それは常に更新されるべきなのだ。
大事なことは見切らないこと。これでよしという答えなど、そう簡単には得られない。得られないがしかし、往々にして直観は的を射る。
磨かれた感性とはそういうものだと思う。
風が変わったとき猫は立ち止まり何やら考えているように見える。たぶんそうなのだろう。違和を感じたときは猫のごとく振舞うのが良いかもしれない。