渋沢栄一が500もの会社を設立した複利経営術とは?複利で資産を増やす経営手法について
お客様からお金を受け取る時、最近は、福沢諭吉と渋沢栄一ミックスの日が増えてきました。
前回の記事の続きです。
渋沢栄一は何故、500社もの会社を作り、教育機関や病院へ出資するほどの財力があったのだろう?なぜ彼の作った企業は大企業ばかりで上場企業が多いのだろう?
私なりに考えたり、調べて納得できた答えをまとめてみました。
彼はきっと、こうしてお金を回して成功していったんじゃないかと思うことを書きます。
彼の手法が複利効果のように感じたので、今回は複利経営術、という表現にしました。
会社の設立方法について
渋沢栄一の経営手法が非常に重要なポイントです。
彼は現在の東京証券取引所を作り、日本の株式会社の制度を整えた人として知られています。
会社の設立には、株式を発行して投資家から資金を調達するという方法を用います。
そうすることですべてを自らの資金に頼ることなく、会社を設立することができます。
彼がこだわったのは、自分が設立した会社の経営の中心に立って利益を上げるのではなく、優秀な人材を配置し、会社の経営は優秀な経営者に任せることを重視しました。
そしてこの経営手法で得た利益を再投資して、新しい会社を設立します。
同じように利益を再投資して、新しい会社を設立します。
これを繰り返すことで、お金が回る仕組みを作り、資産も膨らませていったんだと思います。
彼は個人としての成功ではなく、もっとスケールの大きな視点で社会全体に利益が出るよう、そしてそのお金が自分にも回ってくるようスケールの大きなビジョンで行動していったのが大きな特徴です。
彼が大学や病院、福祉施設の設立にまで関われるほどの財力を得たのは、原点はこの株式会社を作り、自らの資金だけに頼らず投資家からお金を集め、自分がいなくてもお金が回って利益が入ってくるしくみを作ったからだと気が付きました。
だからこそさらなる社会貢献という高みを目指せたのではないかと自分の中で納得できました。
社会全体を良くしようと思う彼だからこそ、彼の想いに共感し、沢山出資者が集まったのかもしれません。
この一連の彼の行動には、彼が提唱してきた道徳と儲け、そして教育にかける想いすべてが集約されていると感じました。
自分の利益が社会全体の利益にもなって、自分が亡くなった後も会社が回り続け日本を支える大企業へと発展していたり、医療の面でも経済の面でも優秀な人材を育て続け、発展していく仕組みが残り続けているのはすごいことですよね。
彼は経営は自分ですべてをするのではなく、人に任せていくという考え方を持ったからこそ、優秀な人材を育てて任せることを重視したんだと思います。それには人の能力を信じることも大切です。
これが彼が偉業を成し遂げた大きなポイントだと思いました。
これにより、1907年前後の最盛期には、約30社の取締役および社長を務めることができたようです。
会社設立において、人を応援するということも積極的にしていた。富を独占する私欲ではなく、社会全体に公平にお金が回るようなしくみを考える
彼は自分が作った会社の利益を再投資して新しい会社を作って、お金が回る仕組みを整えたのではないか、と書きましたが、それ以外にも、会社の設立をしたいという人の話を聞いて、資金調達のお手伝いをしたりもしていたようです。
彼は設立する会社の出資者を募るときは、大口投資家から集中投資されるのを避け、少ない金額でも、多くの人から資金を集めることにこだわったそうです。
明治時代に、少額でも身分に関係なく、一般の人でも株主になれるしくみを整えていくとはこの考え方、すごいことですよね。
この考え方は、彼がパリ万博に行った時に、株式会社制度に感銘を受けた、というのはもちろんあるかもしれないですが、やはり農民出身だったからこそ、地位の高い人が富を独占するのではなく、一般の人にも広く株の持ち分を分配して、富を得るチャンスを持たせてあげたい、という親心のような気持ちだったのかもしれません。
少額でも株主になれば、企業の成長に参加することができて、利益が出る可能性もあり、それが楽しみになります。
彼の公平さが良く分かりますよね。
彼は自身が大株主になって、利益を独占することだってできたはずです。
彼の設立した会社の中で、最初に設立した、現在のみずほ銀行の前身の一部(設立時第一国立銀行)は大株主だったようです。
しかし彼は、金融機関の株を、一般的に公開して、多くの人が株を買えるようなしくみを整えています。
その後も沢山の金融機関の設立にも関わっていますが、他の金融機関については、彼が直接的に設立したわけではなく、支援やアドバイスを提供したり、設立に協力したりしたことも多かったです。
調べてみると、彼が全盛期に役員や社長を勤めた30社の会社については、渋沢栄一が中心の株主構成だったようです。
それ以外の多くの会社は、幅広い株主構成だったと予想しました。
設立した業種も多岐にわたるので、想像すると、起業当初は大株主として会社を設立していたけど、次第に時間が経過するごとに彼の影響力が増し、彼が起業するよりも、他者を支援する形での会社の設立が増えていったのではないでしょうか。
そしてその頃にはほぼ、幅広く出資者を集めるスタイルが確立していったのだと思いました。
最終的に彼が500社もの会社を作ることができたのは、人々の会社の設立を支援する形の立ち上げも増えていったためだと思います。
それが最終的には彼の業績として残り、500社以上の会社の設立、という偉業につながったのだと思いました。
彼は晩年まで小回りよく積極的に人に会いに行き、働いていたようですので、人が好きという性格と人の良さ、公益を追及するという価値観が大きく影響したんだと感じました。
公益性と遺産相続
公益性は、彼の遺産相続にも表れているようで、お金という形で遺産を残すのではなく、株式会社や公共事業という形で遺産を残されたようです。
そうすることで、社会全体へその遺産が貢献するようになることを重視したとともに、これにより、家族が遺産相続で骨肉の争いになることを避けることができました。
財閥を作ることもできたかもしれないけど、二代目、三代目社長のような代々続く会社を作らなかったのは、子供の人生の選択肢を広げて、自由な生き方を尊重することにもつながると感じました。
例えば事業を継ぐために、長男だから会社を絶対継がなきゃ、嫁は息子を絶対産まなきゃ、という資産家ならではのプレッシャーもないですし、配偶者選びや、後の配偶者本人の幸福度にもかなり影響してくると思いました。
彼の遺産への考えは、お金そのものを多く残すというよりは、ずっとお金に困らないよう、先祖代々道徳の上で正しく自らお金を儲け続けられるような、自らお金を生み出すための教育を引き継いでいきたかったのだと思います。
渋沢栄一が設立に関わった大学
彼は沢山の教育機関や大学、福祉機関の設立にも関わっていたようです。
彼が設立や支援をした教育機関の中でも、特に重要なのは一橋大学(旧商法講習所)です。
また、日本女子大学や早稲田大学の設立にも協力しており、これらの教育機関への資金援助を行っていたようです。(早稲田大学は大隈重信に協力する形のようです。運営にもかかわっていたとの記録がありました。
基金管理委員や維持員も務めていたようです)
日本女子大学については、調べたら、明治34年、彼が61歳の時設立、会計監督の後、校長先生をしていたようです。
女性に学はいらない、と言われた時代に女性にも教育の機会を、と考えて大学まで設立されているので、自身の子供への教育にも力を入れて、沢山投資していたんだろうな、と想像しました。
それ以外にも沢山の教育機関や福祉施設などにも関わってますし、すごく偉大ですよね。
一橋大学の設立においては、特に経営、商学には特別な思い入れがあったと強く感じました。
彼は沢山会社を設立する中で、「企業が育つには、優秀な経営者を育てる教育環境が必要だ!」と熱く痛感したのかもしれません。
70代の時に、「論語と算盤」という道徳と儲けに関する考えを一体化させた書籍も出されてますが、出版の時期から考えてみても、実績を多く残したうえで、「やっぱり儲けには道徳が大切。」と再確認しながら書籍を書いたのだと思いました。
ぶれない人ですよね。
最後に、やっぱりこれだけの実績を残す人は性欲も盛んなんだなあと思ったことをまとめてみたんですけど、今回の記事も追記したりしてまた長くなってしまったので、次回また、男性としての渋沢栄一というタイトルで公開しますね。