ラーメン屋である僕たちの物語3rd 17
コトン
「終わった…」
最期の営業を終えた僕は、スープ寸胴の上に静かに柄杓を置いた。
その途端に溢れてきた沢山の想い出たちは、すぐに熱い鉄板の上でアイスクリームみたいに溶けては茹麺機の湯気と一緒に換気扇に吸われていく。
まるで僕の情熱が、天に還るように。
一つの夢が終わった瞬間だった
「終わらない歌」
後編
2006年
8月25日
鎌倉麺や ひなどり
最終日
「ブロロロロロロロ…」
一つの夢が終わりを迎える。
僕は夢の終着場へ向けて、最期の通勤路を走っていた。
3年半前、初めてこの道を通った僕の心には希望と自信が満ち溢れていたのに。
明日からはもう二度と、夢を背負ってこの道を走ることはないのだ。
そんな感傷に浸りながら走り抜ける景色は、いつもよりずっと色濃く見えた。
とは言え、ひなどりを閉めることに未練はほとんどなくなっていた。
流れ去っていく一つ一つを目に焼き付けている僕を、心の片隅に棲みつく不安や恐怖が見つめてくる。
油断すればすぐにでも、怯える僕を丸飲みしようとしているリアルで大きな怪物の正体。
「お金」
結局、ひなどりの居抜き譲渡は失敗し、僕は借入金の返済と撤去料の300万円の負債を抱えたまま再出発することになった。
全てが順調だと思ったあの日から、3ヶ月余りで再び地に落とされた。
この空模様の如く、暗雲は若く燃え盛る太陽を隠してしまった。
ポ
ツ
ポ
ツ
苦々しく空を睨みつける僕の顔に水滴が落ちた。
とうとう空が泣きべそをかき出してしまった。
僕は右ハンドルグリップを全開にし、急いで駐車場に向かった。
「…ギッ」
御成通り裏に借りている駐車場に原付を停めた。
空はまだポツポツと、嗚咽を堪えている。
ヘルメットを脱ぎ、急ぎ店に向かおうとする僕を呼び止める声があった。
「大西くん、おはよう」
「あ、おはようございます」
声のする方に振り替えると、駐車場の隣にあるイタリアンレストラン「すずき」のオーナー鈴木さんがコックコート姿で店の玄関前に立っていた。
「噂は聞いたよ。店閉めるんだってな」
ひなどりオープンから、何度もら~めんを食べに来てくれていた鈴木さんは、度々僕やTっさんのことを気にして声をかけてくれていた。
そして僕たちも時々「すずき」にお邪魔しては、飲食の仕事や鎌倉の事情について教えてもらっていた。
しかし、この三か月の緊急事態の中で、すっかり鈴木さんへの報告を失念してしまっていた。
「…はい。実は今日が最終日なんです。鈴木さんにはいろいろとお世話になりました。ありがとうございました」
「そうか。鵠沼でも元気に頑張るんだぞ」
僕は会釈をし、鈴木さんの激励の言葉にさえいたたまれなくなり、そそくさと逃げるようにその場を去った。
同日
AM8:00
鎌倉麺や ひなどり
「ボッ」
勢いよく水を溜めた茹麺機に火を点ける。
夏の厨房の温度がぐんぐんと上がっていく。
僕は卓上の小さな扇風機の風を、汗ばんだ額に浴びながら朝の仕込みを始めた。
営業に使う分のねぎを刻み、メンマをタッパーへ移す。
製麺所から届いた麺を受け取り、
「お世話になりました。引き続き鵠沼の方はお願いします」
などと挨拶を交わした。
今日はスープの仕込みをする必要がない、珍しくゆったりとした朝の時間をすごしていた。
「おはようございます~」
そのうち、笑顔で出勤してきたバイトちゃんの顔を見て、僕も少し笑顔になる。
「おはよう。最終日、よろしくね」
「なんか、寂しいですね」
僕は返せる言葉が見つけらないまま視線を外し、仕込みに逃げた。
そんな様子を察してか、バイトちゃんもせっせと朝の準備を始めた。
10:00を回ったころ、母が両替金を持ってやってきた。
「おはようございます~!あら!バイトちゃん、今日はよろしくお願いします~!」
最終日と言うこともあり、母もホールに立ち、お客さんにご挨拶したいのだという。
「おふくろ、ありがとう」
「最後なんだから!元気にやりなさい!」
「うん(苦笑)」
≪最期の開店時間≫まで残り一時間ちょっと。
僕は仕込みに漏れがないか、思い返した。
「えーと…」
しかし、どう思考を巡らせても頭の中には何も浮かばず、ただただ「虚無」な世界だけが広がっていた。
同日
AM11:20
鎌倉麺や ひなどり
「芳実!回転10分前よ!」
「うん。…じゃあ、行ってくるよ」
少し慌てた母に促され、僕は店のドアの前に立った。
ひなどり閉店の情報を聞きつけた常連さんたちが最終日に来てくれるというので、開店時のように最期のご挨拶をしたいと思っていた。
正直、閉店なんてかっこ悪いと思っていた僕は、恥ずかしさの余りお客さんと顔も合わさずに、今すぐ逃げ出したかった。
しかし、こんな僕たちを見捨てず応援してくれた人たちの気持ちには報いたいと思い、最期の挨拶を決意した。
≪鎌倉にけじめをつけよう≫
そう自分に言い聞かせ、ひなどりのドアを開け、外に出た。
グイッ
「わ!」
扉を開けた向こうには、なんと何十人もの常連さんたちが行列を作って待っていてくれたのだ。
BKさん、KGさん、TGさん…ずっと僕たちを応援し可愛がってくれた人たちの顔が並んでいた。その中に…
「今i君!」
先日「カミカゼ」で会った今i君が、お母さんを連れて来てくれたのだ。
今i君はニコニコと笑顔のままペコリと会釈してみせたので、僕も会釈を返した。
そして、みんなの顔を眺めて頷くと、すぅと大きく息を吸い、腹の底から声を出して開店の挨拶をした。
「えー、みなさん!
本日はご来店ありがとうございます!
本日、鎌倉麺や ひなどりは閉店いたします!
三年半の間、ご愛顧いただきありがとうございます!
本日も一杯一杯、精一杯作らせていただきます!
よろしくお願いします!」
路地に響き渡る僕の声に、通行人が何事かと振り返る。
挨拶について何も考えていなかった僕は、心に湧いてくる言葉を出し切ると、深々とお辞儀をした。
≪早く、終わってくれ≫
僕の脳裏にそんな言葉が浮かんだ時…
パ
チ
・
・
・
パ
チ
・
・
・
パ
チ
パ
チ
パ
チ
パ
チ
パ
チ
パ
チ
パ
チ
パ
チ
パ
チ
!!
小さな拍手が起こり、瞬く間に万来の拍手に変わった。
「お疲れ様ー!」
「渦もいくぞー!」
「ら~めん楽しみにしてるぞー!」
頭を上げた僕に、沢山の励ましの声が浴びせられた。
僕は圧倒され、みんなの顔を眺めるしかなかった。
…そうか。
これだ。
僕がこの仕事を好きになった理由は。
≪≪お客さんとの温かい繋がり≫≫
親父の店「七重の味の店めじろ」で目の当たりにした、親父とお客さんの人情あるコミュニケーションに憧れたのだ。
そう気づかされた瞬間、胸が熱くなり、踊った。
力が身体の底から無限に湧いてくる。
ああ、また、お客さんに救われてしまった。
僕は感動で震える心を抱きしめながら、大きく声を張った。
「では!本日もよろしくお願いします!」
拍手の嵐の中、再びお辞儀をし、サッと店に戻った僕は、おふくろとバイトちゃんに声をかけた。
「じゃあ2人とも、最終日よろしくお願いします!」
「よろしくお願いします!」
僕は厨房に素早く戻ると、次々に暖簾を潜る一人一人に元気よく声をかけた。
「いらっしゃいませ!」
「はい!醤油ら~めん、お待ちどうさまです!」
「ありがとうございまーす!」
目の前の一杯一杯に、真心をこめてら~めんを仕上げる。
お客さんの顔を思い浮かべながら、その一杯を仕上げる。
最終日、今までの思い出がこみ上げてくるかと思ったが、意外なほどに僕の心は穏やかだった。
お客さんと心から繋がった喜びに震える胸を抑えながら、落ち着いて仕事を進める。
温めた丼に、タレ、香り油を入れ、刻み葱を入れる。
麺を茹ではじめたら、寸胴から柄杓でスープを掬い、丁寧に丼に注ぐ。
チャーシューを切り、焼き網に乗せ、脂を溶かしていく。
「ピピピ!」
茹で上がった麺を湯切りして丼に放ち、麺線を揃えたら、めんま、チャーシュー、海苔を盛りつけ、お客さんに委ねる。
「お待たせしました!」
『自分を食べられること』がこんなに嬉しいことなんだと、開業当初の僕は知らなかった。
それも、お客さんが教えてくれたことだった。
「大西さん、お疲れさまです!」
今i君が、お母さんと一緒に僕の目の前の席に座った。
「今i君、来てくれてありがとう!
お母さん、こんにちは!今i君にはいつもお世話になっています!」
などと笑顔で社交辞令を交わしていく。
「今i君、どう?ここでやってみない?」
ダメ元でもう一度アタックしてみたが、
「いや~、ははは…」
またもや今i君に分かりやすい愛想笑いで躱されてしまった。
つい先ほどまでの僕なら、ここで意気消沈していたと思う。
「ま、いいや。なんとかなるでしょ!」
しかし再びお客さんに自信を貰った僕は、もうそんなことではクヨクヨしなかった。
「はい!お待ちどうさま!」
今i君に渾身のら~めんを差し出し、次にお待ちのお客さんへ意識を向けて、不安を置いていく。
「ありがとうございまーす!」
「いらっしゃいませー!」
僕は正に無我夢中で、僕のら~めんを楽しみにしてくれているお客さんに食べてもらえる幸せに没頭していた。
「芳実!15時になったから閉めるわよ!」
「…え?」
ら~めんを作るのに夢中になっていた僕は、母の声で我に返った。
「…もう、終わり?」
胸に宿る若く燃え盛る太陽が僕の魂を燃やし、この身体は時間を忘れて動き回っていたが、とうとう日没の時が来てしまったのだ。
≪早く、終わってくれ≫
開店直前の挨拶で、そんな言葉が脳裏に浮かんだはずなのに、今は終わってしまうことが受け入れられなかった。
「いや、待って…」
そう言いかけたが、行列はもうすっかり引いてしまって、数人の常連さんがビールを片手に談笑していた。
いつの間にか空は泣き始め、外は大雨になっていたのだ。
「……終わりか……」
ふっと心の火が消えかけた瞬間ー
「まだ…、大丈夫ですか!?」
入口のドアを開けて、一名様のご来店があった。
「もちろん!どうぞ!いらっしゃいませ!」
僕の沈みかけた太陽は燃え上がり、溌溂と店内を照らした。
「ああ、…良かった」
そのお客さんは、月に一度くらいの頻度で来てくれていた、僕より少し年上の男性だった。
「さっき、…今日が最終日だと聞いて…、仕事の合間に急いできました」
男性のその言葉に様子を見ると、大雨の中に走ってきてくれたのだろう、服を濡らし、息を切らせていた。
「ありがとうございます!これが最終日、最期の一杯です!精一杯つくりますね!」
自分の口から出た言葉と男性の様子に、僕は覚悟を決めさせられた。
これが、最期の一杯
丼を温める、タレ、油を入れる、そんな一つ一つの仕草が惜しい。
麺を茹でるタイマーが終幕へのカウントダウンを始める。
「ピピピ」
茹で上がった麺を湯切りをし、盛り付けを仕上げた一瞬、丼を掴む手が止まった。
「…お待たせしました!」
僕は後ろ髪をひかれる思いを振り切って、ら~めんを差し出した。
「いただきます」
そう言うと、その男性は目を閉じてら~めんをじっくりと味わい始めた。
僕はその様子から目を離せず、決して忘れまいと目に焼き付けていた。
「ありがとうございましたー!」
最後のお客さんを見送ると、ひなどりでの営業の終わりを実感した。
覚悟を決められたおかげか、僕の胸にはやり切った、清々しい風が吹いていた。
そのまま残って談笑する数人の常連さんと、スタッフに声をかけた。
「みんな、お疲れ様でした!」
「ありがとうございました!」
大きく声をかけると、朝と同じように拍手が起こった。
パ
チ
パ
チ
パ
チ
パ
チ
パ
チ
パ
チ
パ
チ
パ
チ
パ
チ
!!
「おつかれさまー!」
「おつかれー!」
「ありがとうございます!ありがとうございます!」
みんなの労いの言葉に照れ笑いしながら、身体にクセついた厨房内の片付けを始める。
コトン
「終わった…」
スープ寸胴の上に静かに柄杓を置くと、ふいにそんな言葉が頭に浮かんだ。
その途端に、溢れるほどの想い出たちが胸に去来した。
開店当初、上手くいかない味作りに、お客さんの顔を見るのも怖かった日々。
相棒であったTっさんと、本当の意味で相棒になれた「あの事件」
そして、死んでいたかもしれない事故と、母の決意。
自分の未熟さと、父へのプレッシャー。
伝説の「ガルマ国葬事件」からのTっさんとの決別。
その後に集まったスタッフたち。そして別れ。
ひなどり閉店を決断させた母の言葉。
ほんの一瞬のうちに僕の胸の中を、ひなどりを取り巻いた喜怒哀楽が駆け巡った。
しかしそんな思い出たちも、浮かんではすぐに熱い鉄板の上でアイスクリームみたいに溶けていき、湯気になって昇っていく。
まるで僕の情熱が、天に還るように。
一つの夢が終わった瞬間だった。
。
。
。
。
。
。
「…あれ?」
「なんだ、これ?」
ふと、不思議なことが僕に起きた。
「…芳実さん?」
「…あれ?あはは、なんだこれ?」
僕の様子に気付いた常連さんに声をかけられて、僕もやっと何が起きたのか分かった。
「なんだこれ?…とまれ、とまれよ」
僕の目から、涙が勝手に溢れてきたのだ。
悲しくなんかないのに、寂しくなんかなかったのに。
「芳実さん、酒も飲んでないのに泣いてるんですかー?」
誰かがつまらないジョークを言った。
「あはははは!なんかそうみたーい!」
僕は笑顔で答えたが、ぽろぽろと溢れる涙を止められなかった。
ちぐはぐな心と身体の反応が、この鎌倉での僕の戦いの答えだった。
せいせいした!
≪さみしい≫
やっと終わった!
≪いやだ≫
次だ次だ!
≪くやしい≫
「ひなどり」を閉める。
気持ちに整理をつけたはずだったのに、本当の気持ちをどこかに隠していたままだった。
お客さんの温かさによって、その隠された気持ちの外套が脱がされたのかもしれない。
「あはは~!止まんないから、もうこのままでいいや~」
「わはははははははははは!!!!」
笑顔で大粒の涙を流す気持ち悪い僕をみんなが笑う中、店の入り口が開いた。
グイッ
「あの~」
見ると、先ほどの男性だった。
「ボク、そこの中央市場の中でパン屋をやってまして、これ、良かったら召し上がってください」
右手に携えられたビニール袋を受け取ると、まだ温かいパンがぎっしり入っていた。
「美味しいら~めんをありがとうございました」
パン屋の男性はそう言うと、そそくさと去っていった。
僕は両手から伝わるパンの温かさを感じながら、あまりの感動で茫然とするしかなかった。
言葉にできない想いが胸を駆け巡る中、再び入口の扉が開いた。
グイッ
「…Tっさん!」
「いや~、すごい雨ですな!さすが店長の
雨男健在!って、なに!?もう泣いてるの!?
どんだけみんなに飲まされたんですか!?」
昼のバイトのシフトがどうしても代わってもらえず、営業中には間に合わなかったが、バイト終わりに飛んできてくれたのだ。
着いて早々、みんなと同じつまらないジョークを言う。
「…うるさいよ!ていうか遅いよ!ひなどり終わっちゃったじゃんかよ!」
僕は泣き笑う気持ち悪い顔のまま、Tっさんに悪態をついた。
「すいません。これでも通常の三倍の速さで来たんですけど…」
「お前は赤い彗星か!てか赤くないじゃん!今日おおむねグレーじゃん!」
「ああ、すいません。グフでした」
「グフはグレーじゃねえし!」
「わはははははははははは!!!!」
相変わらずのTっさんと僕のやりとりに一同が爆笑している中、一本の電話が鳴った。
「Trrrrrrrrrrrrrrrrr」
「Trrrrrrrrrrrrrrrrr…」
母がみんなの間を縫って、受話器をとった。
「はい!鎌倉麺や ひなどりでございます~!」
「はい!はい!少々お待ちくださいね~」
母は明るくそう言うと電話の保留ボタンを押し、僕に言った。
「芳実!××さんから電話よ!」
みんなの歓談の声で名前が聞き取れないまま、僕は受話器を受け取った。
‐エピローグ‐
翌日
10:00
鎌倉麺や ひなどり跡地
「おはよう!」
「おはようございます。昨日はお疲れ様でした」
「じゃあ、やりますか!ありがとね、Tっさん」
「いえいえ、最期くらいは私も見届けたいですからね」
ガラララララ…
僕はひなどりのシャッターの鍵を開けて勢いよく引き上げた。
続いて入り口の鍵を開けて、
グィッ
ドアを開けてTっさんと店に入る。
僕は持っていた紙袋から軍手とたわし、雑巾、マスクなどをTっさんに渡した。
「さて、綺麗にしておいてあげないとね」
「ですな。立つ鳥、跡を濁さずですよ!店長!」
「わかったよ!笑」
今日、僕たちがひなどりに来た理由。
それは店の大掃除のためだ。
え?取り壊してスケルトンにするのに、なんで掃除するのかって?
それは昨日の営業後、こんなことがあったからだ。
「はい、お電話代わりました!大西です!」
電話口が誰なのか全く見当がつかなかったが、僕はいつも通り元気よく電話口で話す。
「あ、お疲れ様です!今日はご馳走様でした!」
「おお、今i君か!こちらこそ今日はありがとうね!」
律儀な今i君は労いの一報をくれたようだった。
「ら〜めん、美味しかったです!えーと、それで…」
今i君は何か言いたそうに言い淀んだ。
「お店の譲り先って決まっちゃいました?」
意外な質問が受話口から聞こえた。
「え、いや、決まってないよ?どうしたの?」
僕が訝しげにそう答えると、
「ああ、良かった!大西さん!良かったら僕に譲ってもらえませんか!?」
「……は?」
「大西さん?」
「は?…えーーーー!?」
驚く僕の声に店に残っていたみんなが振り返る。
「今i君!一体どうしたの!?俺、さっきも断られたじゃん!?」
僕はこの信じられない展開に頭が付いていかなかった。
だって、こんな土壇場で状況がひっくり返ったのだ。
読んでるあなたも信じられないでしょ?
「いやあ、僕より連れて行った母があの物件気に入っちゃって。『絶対ここでやらせてもらいなさい!』ってうるさいんですよ笑」
!!
そうか!お母さんが気に入ってくれたのか!
そりゃ最終日とはいえ、あんなに人が集まってくれたら、宣伝効果抜群だ!
お母さん!ありがとうございます!
お客さん!ありがとうございます!
「うんうん!俺も是非、今i君にやってほしい!売買契約書もすぐに作成するよ!」
僕はこの千載一遇のチャンスを逃してはならないと即答した。
「じゃあ、大家さんには俺から連絡しておくから、これからのことは明日以降に!」
そう言って、電話を切るとみんなに振り返り
「うおおお!やったーー!!!!」
僕は両手を上げてガッツポーズを決めた。
「売れたんですか!?やりましたな!」
Tっさんが駆けよって来たので固く抱き合った。
こうして最期の最後の本当に最後に、ひなどり閉店の最大の課題であった『居抜き譲渡問題』が解決したのだった。
その後、今i君はこの地で「湘南麺屋海鳴」を開業し、繁盛店を作ることになる。
「しかし、本当にあんなこと起こるんだなあ」
僕は厨房の壁の油汚れを落としながら、冷蔵庫の中を覗き込みながら掃除するTっさんのお尻に向かって話しかけた。
「そうですね〜。店長は本当に悪運が強いですな」
Tっさんのお尻がそう返した。
「でも店長もたまにはいい事言いますな。『今i君に引き渡すまでに店をピカピカにしておいてあげたい』なんて。何か悪い物でも食べたんですか?」
電源の切れた冷蔵庫が暑いのだろう、振り返ると汗だくのTっさんが立っていた。
「はは。せめてものお礼だよ。それに付き合ってくれるTっさんもやっぱりお人よしだよな。俺は嬉しいけど」
僕は油汚れでまっ茶色になった雑巾を水道で濯ぐために脚立を降りた。
「まあ、二人で始めた店ですから、二人で終わらせたかったってのもあります」
「そうか。そうだね。ありがとう、Tっさん」
僕は改めてTっさんにお礼を伝えた。
「それから店長、すごくシャクなんですが」
Tっさんがわざと苦虫を潰したような顔をして言う。
「え?なに?俺またなんかした?」
僕は怯えた顔をして返した。
「渦、手伝ってあげてもいいですよ」
「…は?マジ!?」
僕はTっさんの心変わりが信じられず、雑巾を濯ぎながら彼を二度見した。
「いや、本当に飲食はやるつもりなかったんですが、女将さん(おふくろ)に頼まれてしまっては断り切れなくて。その代わり、短い間ですよ!」
Tっさんは困り顔で念を押した。
「それでもいいよ!またTっさんとラーメン屋やれるんだ!やった!ありがとう!Tっさん!」
僕は嬉しさのあまり、びしょびしょの雑巾を持ったままTっさんに抱きついた。
「あーー!!!ほんっとに!この人は!」
背中からお尻にかけてひどく濡れてしまったTっさんが悲鳴をあげた。
※イヤフォン推奨
下ネタやくだらない冗談を交わしながら掃除に戻ると、僕は持参したラジカセの再生ボタンを押した。
二人でよく歌っていた曲のイントロが流れてきた。
そして僕たちはいつものように、どちらともなく口ずさみ始める。
「…終わらない歌を歌おう
クソッタレの世界のため
終わらない歌を歌おう
全てのクズどものために…」
僕たちの旅は終わらなかった。
夢は終わるものではなく、諦めさえしなければ次第に形を変えて『新たな夢に変わるだけ』なのかもしれない。
夢を終わらせてしまうのは、自分自身だ。
僕はこの小さな旅で、そんなことを学んだ。
だから、夢に迷う人たちに伝えよう。
夢を諦めない大切さを。
夢の形に執着しないことを。
夢はいつもあなたのそばにあることを。
終わらない歌を歌おう
クソッタレの世界のため
終わらない歌を歌おう
全てのクズどものために
終わらない歌を歌おう
僕や君や彼らのため
終わらない歌を歌おう
明日には笑えるように
『第三部 完』
…to be countinued➡