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ラーメン屋である僕たちの物語1st ⑥


「Father」






薄暗い店内




真綿色の光が、小さな窓枠に縁取られた帯になりカウンターに落ちる。



草臥れた換気扇がしんどそうに回る。



僕は冷たく重い寸胴に水を溜めながら、茹で麺機でゲンコツのアク抜きをして、鶏ガラを掃除する。



下処理の終わったゲンコツ、背ガラ、鶏ガラを水の張られた寸胴にゆっくりと入れ、五徳のコックを捻り、点火した。



「ボッ…」



突然生まれた熱気が、額や頬に当たる。


早朝の仕込みは、どこか清々しくて好きだった。


ラーメン屋の朝は忙しい。


スープを仕込み、長ネギを切り、チャーシューを切り、メンマを仕込み、券売機に電源を入れ、飲み水を用意する。


店内外の掃除、トイレ掃除。



製麺所から配達される麺の受け取り。

お肉屋さんからの受け取り。など。


めじろの門を叩いて一年。


朝の仕事は僕のものになっていた。


長ねぎを刻みながら、これまでのことを思い出していた。






七重の味の店めじろ店内



Sさんが辞めてから暫くは、親父は朝の仕込みに来てくれていた。


僕が出勤する頃には親父が先に店に来ていた。


「おはようございまーす…」



まだ挨拶がいい加減な僕を


「もっと大きな声ではっきり挨拶しろ!眠たそうに入って来るな!」



親父は叱りつけた。



今は朝の挨拶の大切さはよく理解しているが
学生気分の抜けない当時の僕に、親父もさぞや業を煮やしたことだろう。
(大学は留年までしたのに結局退学してしまった。お袋には無駄なお金を使わせてしまい、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだった)


更に、Sさんのことを「できない人」呼ばわりしていた僕も、相当な「小僧」だった。


・きちんと挨拶ができない。
・遅刻をする。
・面倒な仕事を先送りし、あげく忘れる。
・頼まれたことをメモしない、あげく忘れる。
・高価な食材を無駄にする。勝手に捨てる。
・当時の彼女や友達を親父に黙って手伝わせて、店の売り上げからバイト代を支払う。etc…


今では信じられないような、いい加減なことを沢山していた。(書けないこともいっぱいある)


親父にはその都度叱られたが、正直、当時の僕にはあまり響いていなかった。


未だ反発心もあり、素直に聞けなかった。


いま自分の店にこんなスタッフがいたら辞めてもらっているな、というモデルが当時の僕だった。


親父はそんな小僧を時に叱りながら、時に諭しながら沢山のことを教えてくれた。


「味付けは濃いより、少し薄いくらいの方が良い」



「お客さんを待たせろ。行列は作れ。」



「味作りに失敗してもリカバリーできるのがプロ。できないのがアマチュア」



「食事の時は舌に集中しろ。味覚の開花が必ず起きる」


「テボは寝かせて〈面〉で湯切りしろ」


「冷たい料理は皿まで冷たく、温かい料理は皿まで温かく」


「スープはレンゲで飲むより、直接どんぶりから飲んだ方が美味しい。だからうちではレンゲは置かない」


「黒胡椒は魚介出汁の旨みを散らしてしまう。だから胡椒は置かない」


「お客さんの意見は聞きすぎるな。いつの間にか〈お客さんの味〉になってしまうから。」


「白髪ネギを揉むときは、女の子のおっぱいを揉む時の様に優しく揉め」



「ありがとうございま『した』では縁が切れてしまう、ありがとうございますと言え」



沢山の親父の理念を僕に話してくれた。



そんな親父の言葉で僕が1番好きな言葉がある。




夢を追いかけていれば
お金は後から付いてくる




この言葉は親父の口癖だった。



この頃のめじろは大繁盛店になっていて
ワンオペでありながら1日200人もの集客があった。(これはもうやりたくないです笑)


親父は夢を追いかけ、追求し、お客さんがそれに応えてくれていた。


その頃に「めじろ」の歴史も教わった。


そもそも、最初にめじろを開店したのは、藤沢駅近くの歓楽街「新地」の中だった。



藤沢は東海道五十三次に紹介もあるように、古くからの宿場町で遊郭や遊里の名残りとしてソープランドなどが軒を連ねていた、所謂「赤線地帯」があった。



組事務所も近くにあるその一画に「小鳥の街」という飲み屋街があり、そこで出店する際は必ず「鳥の名前」を付けるという習わしがあった。



そこで親父はお店の繁盛を願い、野鳥が止まり木にぎゅうぎゅうになっている「目白押し」から「めじろ」と屋号を付けたそうだ。



その後、小鳥の街の衰退を目の当たりにした親父は、「このままではいけない」と移転を決意。みんなのよく知っているあの場所に移転した。



その移転後の開店前日に、親父と祐貴は偶然の再会をする。


もう一つ、印象的な親父の口癖があった。


「俺の頭の中には寸胴があって、頭の中でラーメンを作れるんだ」


親父は新しい作品を作る際、一度も味見をしない。


しかし、そのどれもが新しく、とてつもなく美味しいのだ。


そんな親父のクリエイティブを何度も目の当たりにした。


醤油タレに味噌を隠し味にしたら〜めん「和」


鮮魚系ラーメンの走り「鯵塩ら〜めん」


オリーブオイルとハーブを使った塩ら〜めん
「春よ来い」


複雑でパンチの効いた男性専用ら〜めん「乱」


黒胡椒をかければかけるほど味が締まって美味しくなる不思議なら〜めん「雄喜(ゆうき)そば」※黒胡椒が使用できたのはこれのみ
(息子の名前シリーズwでは「誼(よしみ)」というら〜めんも親父は作ってくれたが、あまり気に入ったものにならなかったらしく、発表から一週間もしないうちに、目の前でタレを全て捨てられて、とても悲しかったことを覚えている)


数えていけばキリがないが、全て親父の頭の中で作られた一杯を、親父が形にしたものだ。


僕は、親父を天才だと今でも信じている。


また、ほうれん草のソースを味変アイテムにした味噌ら〜めんの新作「歩」(ふ)を開発し、
僕が作ったものとして発表した。


親父は僕に花を持たせ、常連さんに認めてもらおうとしてくれたのだと思う。


親心が嬉しかったし、そして少し悔しかった。

当時の取材記事
何も知らぬただの小僧だった僕


この時期に親父の理念、センス、親心に触れられたことは今後の自分に大きな影響を与えてくれていたことを自覚するのは、ずっと後になってからだった。




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「ガチャ…キィ…」


ふいに扉が開いて、朝の光が仄暗い店内に滑り込んでくる。


僕は手を止めて顔を上げた。


「おはようございます…」



元気のない声が入ってきた。


「Tっさん、もっと大きな声ではっきり挨拶してよ!元気だそう!」



彼は新人のTっさん。


僕の幼馴染だ。


彼とは長い長い付き合いになる。


しかし、彼がめじろに入ってから暫くすると、僕と親父との歯車は軋む音すら次第に聞こえなくなってしまい、やがて分解を迎えることになる。





…to be continued➡︎





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