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ラーメン屋である僕たちの物語2nd ④


「Mother」











母は海だ



時に穏やかに、大きな愛で僕たちを包み



時に荒々しく、僕たちを叱りつける




父を大きな山とするならば、母は大海だ





そんな母に僕たちは育てられた














母は生まれも育ちも高知県。


大学進学と共に上京したという。

母 由美子 18歳
本人よりノリノリで写真提供


卒業後、入社した会社で父と出逢い、交際3ヶ月で結婚したそうだ。



「初めておかあさんを見た時に『お、涼しい顔したいい女だな』って思って口説いたんだよ」




めじろ修行時代に、一度だけ父が照れくさそうに話してくれた。

母 由美子 20歳の時
本人よりノリノリで写真提供



そして、24歳で僕を産み、25歳で弟を産んだ。

弟1歳 僕3歳



僕たちが物心つく前は麻布3丁目に住んでいたそうだが、程なくして、父の両親(祖父母)が住む藤沢の一軒家へ引っ越し、一階を祖父母が、二階に僕たち家族が暮らすようになった。



僕は近くの藤ヶ岡幼稚園に入園したが、そこでいじめに遭っていた。
(Tっさんと同じ幼稚園の桜組だった)

女の子ような名前のせいだったのか、小さい体格のせいだったのか、理由はわからないが、執拗にいじめられていた。


いじめられては泣いていた僕を見て、母はよく言った。




「男なら立ち向かえ!」





一度、立ち向かって相手に血を流す怪我をさせてしまった時は、いじめっ子たちが家まで押しかけてきて、僕は事情を知らない祖父に叱責されたが、祖母はいじめっ子たちを叱りつけてくれた。

その時、母は仕事中だったので事情は知らなかったという。

立ち向かったことを褒めてほしかったかどうかは覚えていないが、いじめられることも、怪我をさせてしまったことも、ただ悲しかったことだけは覚えている。


小学校に上がる頃にはいじめはなくなっていたし、そのいじめっ子達と一緒に遊ぶ仲になっていた。


母は僕が元いじめっ子達を家に連れてくるのも歓迎してくれた。

僕が中学に上がってからまもなく、同じ市内の弥勒寺に引っ越すことになった。

僕は転校することで環境が変わり、友達も代わり、学校にうまく馴染めず、毎日遅刻をし、時には午後から学校に行っていた。

遅刻ばかりする僕に、母が殴りかかってきたことがあるが、僕は自分が悪いことは理解していたので、そのまま受け入れた。

僕が高校に上がる頃、祖父母の家の庭に一軒家を建てることになった。


父の念願の書斎、広い玄関、足を伸ばせるお風呂、大きな駐車スペース、立派な客間、犬が遊べる庭、僕たちもそれぞれ部屋を与えられた。

しかし、家を建ててすぐに父は帰ってこなくなり、やがて家を出てしまう。




その寂しさから、弟はひどくグレてしまった。





その時、僕は





僕だけは






母のそばにいようと決めた






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母は歌が好きだ



家事をしながらよく鼻歌を歌っていた。

僕たちはその姿を見るのがとても好きだったし、僕たち兄弟が歌うことが好きなのは母の影響かもしれない。






母は動物が好きだ



僕たちは物心ついた頃から、ずっと犬や鳥、ハムスターなどと一緒に暮らしていた。

動物達の世話はいつも母がしてくれていた。

僕たちも犬の散歩はしたが、時にはめんどくさがって嫌々行くこともあった。

母は動物達にもたっぷり愛情を注ぐから、動物達も母が大好きだった。




母は料理が好きだ


母の味付けは高知県の「西の味付け」という。

出汁が基本にあり、調味料は控えめの料理が得意だ。

僕たちの味付けの基本は、母のものなのだ。





僕たち兄弟は



母の好きなものを受け継いで育った





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藤沢に引っ越して来てから、母は日本生命保険会社に勤めていた。


やがて、湘南支社の支部長職に就任する。


父は家に生活費を入れなかったので、僕たちは母の稼ぎで暮らしていたが、僕たち兄弟が生活に不便を感じることはほとんどなかった



「男は誰と食事する機会があるかわからないから

『食べたことがない』ということがないように

何でも食べておきなさい」



そう言ってはいろんな料理を作ってくれたり、お店に連れて行ってくれた。


仕事で忙しいのに、中学、高校の弁当も毎日作ってくれた。

時には焼きそばだったり、ナポリタンだったり、麺がボソボソになる正直微妙な弁当もあったけど、今では良い思い出だ。
(白飯におかずが焼きうどん弁当とか笑)

夜中に寝巻き姿の僕たち兄弟を花見ドライブに連れて行ってくれたり、ザリガニ釣りを教えてくれたり、父よりも母との思い出の方が多いかもしれない。


(もちろん親父も釣りやキャッチボール、将棋など教えてくれた。アウトドアは親父から教わった)



僕がバイク事故に遭った時、母は会社の関東営業部の全体集会に、営業支部長として出席していた。

本部長の檄を聴いていた時に、僕からの電話で事故のことを知り、急ぎ病院に行こうと席を立とうとしたが先輩から阻止されたという。






『私は母でありたかった。

子供の危機に駆けつけられない自分が

許せなかった』





『何百人の中の1人の拠点長より

母親としての行動が

許されない会社にほとほと嫌気がさした』






後日、その時の気持ちを話してくれた。



そして、仕事を辞める決断をしたのだ。






『おかあさん、仕事やめようと思うの』






母のこの一言から「麺やbar渦」は生まれ…




そして「麺やbar渦」の終わりと共に






僕は母と決別することになる







to be continued➡︎

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