人に頼むということ
コーヒーを淹れていて、コーヒーマシンで抽出することについて考えた。
機械にコーヒーを抽出させるということは、行動を外部化させるだけでなく,コーヒーを淹れるという行為そのものを外部化することに等しい。コーヒーを飲むことが目的で、淹れることは手段である。目的に沿うのであれば、合理的に考えれば、手段の外部化=簡略化は、時間を有効に使う方法の一つである。だが、私の場合、コーヒーを淹れるという行為自体を目的としている。ここでは意図的に手段の目的化を行っているため、外部化をすることは、却って目的を見失うことになる。一般的な目的、つまりコーヒーを飲むこと、手段の成果物としてのコーヒーは、この限りにおいてはおまけみたいなものである。勿論、味を愉しむことに間違いはないのだが。
話を戻して、コーヒーマシンに抽出させることは、人にものを頼むことを含め、行為の外部化である。
つまり、人に頼むということは、ある事を自分のコントロールできる範囲の外に、支配領域から手放すということだ。あらかじめ自分ができることは言うまでもなく、自分のできないことをお願いする立場であっても、手放すまでは自分の支配下にあり、コントロールが可能である。
人間は、初め生を供与し、徐々に自らの支配下を広げていく。が、同時にそれを手放すことを覚える。そして、徐々に自分の支配領域を、他者と融和させる=社会と曖昧な境界を持たせるようになる。領域境界を、柔軟に変更可能なものにする。
私は今、改めて自分が何を、どこまですべきかについて考えている。新卒の赤ちゃん。やろうとしたことを教えてくれる。できないことを自分の支配下に入れようとすることも可能だが、一方で現実的には全てのことをできるわけではないので、どこかで切り捨てる判断をしなければならない。自分の可能性を展延させながら、同時に制限を掛けていく。
できることを他人に任せられるのは、人の上に立つ素質のある人間だと思う。この場合の素質とは、適正に近い意味である。私にはきっとそれがない。というか、なろうと努力していないというのが正解だろう。
私は今、できないことの方が多いが、できるようになってもそれを手放したいとは思わない。自分の身につけたものを直接的に利用していたい。この執着心を捨てられるかどうかが、先に述べた素質を導くのだろうか。