朝、コーヒーを丁寧に淹れ、忙しなく飲む
朝10時の出勤に対し、8時半に起きる。準備して9時20分に家を出て、26分の電車に乗り、50分に会社に着く。
ギリギリまで寝て、だらだら準備して家を出る。50分もあるのに、スマホを見ながら準備しているせいで、デメリットしかない朝が過ぎていく。こんな朝を過ごしていていいのだろうか。
これでも出勤が遅い分、まだましな方だと言えるのだろうか。
大学生のころはもう少し余裕があった。
毎朝豆から挽いたコーヒーを淹れ、本を読み、ニュースを眺め、自分を確かめる時間があった。とはいえ、ここでノスタルジーに浸ることには何の意味もない。
時間がなくなったのだろうか。いや、そうではない。
社会の時間軸から浮くことを許容された存在、自分の責任で過ごすことを許された存在から、外圧により社会の時間軸に縛られた、社会通底時間軸に沿って過ごすことを迫られた存在になっただけだ。
ただただ、自分の時間軸を失っただけだ。
朝、久しぶりにコーヒーを淹れた。生活のための生活から一歩抜け出した。
社会に奪われた時間軸の主導権を、また手元に手繰り寄せなければ。
せっかく丁寧に淹れたコーヒーは、味わうのでなく消費するように飲み切った。