「バナナは黄色い」と言われると「青いバナナもある」と返さずにいられない人
「バナナは黄色いですよね。この黄色は…」と他人から言われると、「いや、青いバナナもありますよ」と返さずにはいられないような人が結構多くいる。
もう少し、一般化してみるとこういう言い方になる。
ある事柄についてAであると言える側面とAではないと言える側面があったとする。そのとき、相手から「あれはAですね」と言われると、つい「でもAではない部分もありますよ」と自動反応的に言いたくなってしまう人が多くいる。
だが、そこで「そうですね。Aですね」とも自由に言える身体を作っておけると、コミュニケーションにおける自由度が増す。
他にも「いいえ。Aではありません」「そうですね。Aですね。そして、そうでない部分もありますね」など対話の目的から逆算して意図的に対応を使い分けられるとよい。
それができる人はコミュニケーションをコントロールしていると言える。自分がノックを打って、相手をボール拾いのために走らせる側だ。
一方、相手の発言に自動反応してしまう人は相手に振り回されている。相手からノックを打たれて走らされている。
コミュニケーションにおけるコントロール権をしっかり握って、自分の目的にかなった反応を自由に選べる人のことを世間では「あの人はオトナである」と言ったりする。
「反応を自由に選べる」というのをもう少しかみくだいてみるならば「その人の中の反応レパートリーがたくさんあって、状況に適した反応を自然と選ぶことができる」ということだ。
逆に状況は多種多様に変化しているにもかかわらず、反応パターンが硬直しており、いつも決まった反応しか取れない場合、社会との間に不適応を起こす。われわれはそこに「不自由」を見出す。
このようにして、コミュニケーションが自由な人と、不自由な人が存在することになる。
コミュニケーションを自由にしておくためには、
この発言は本当に口に出す必要があるのか?
その目的はなんなのか?
本当に有効に機能するのか?
そういった点を冷静に見つめ、自分の目的や利益に適うような反応を自分で選び取れるようにしておくことが重要だ。それが、コミュニケーションの主導権を握ることにつながる。