BEASTARSの面白さはアナロジー構造のねじれにある
ここ最近で一番面白いと感じているアニメ、漫画は板垣巴留『BEASTARS』である。なぜ面白いのかなと考えてみると、我々の現実社会とBEASTARSの動物社会がそれぞれ抱える問題がアナロジー構造を一部持ちながらも、それが適度にねじれており、全体としては綺麗に一対一対応していないところだ。
アナロジーとは何か?
アナロジー構造とは何かについての詳細は以下の記事を参照してもらいたい。とりあえず、簡単に参考になりそうな部分だけ抜粋して引用しておく。
アナロジーは共通構造を媒介として、説明を行う。説明したい本題(ターゲット領域)とは異なるテーマ、話題から共通構造を持ったわかりやすい話を見つけて説明する。
たとえば、親が子どもに早目のテスト勉強をさせたいとして、イソップ童話「アリとキリギリス」の話をするとしよう。
ただし、「アリとキリギリス」(たとえ話)はアリやキリギリスが冬に向けて準備をするかどうかという話であり、子どもの勉強の話(本題)とは直接は関係がない。
しかし、本題とたとえ話とをつなぐものとなる「早目の準備が役立つ」という共通構造を子どもが見出したならば、このたとえ話は説得力を持つ。子どもが「アリのように前もって準備をしておきたい」と思い、その発想を現在のテスト勉強へも反映させる可能性がある。
解釈1:肉食獣=男性、草食獣=女性
さて、BEASTARS内の動物社会における肉食獣が草食獣に対して抱く食欲は肉食・草食共存のために禁忌とされている。その一方で裏市では草食獣の肉が取引されており、おおっぴらにはされないが、肉食獣たちはそこで肉食を楽しんでいる。これは現実社会の男女間の性欲とアナロジー構造を持つとみることができる。現実社会においてセックスや性欲というのはあまりおおっぴらにするものではないと思われている。
肉食獣=男性
草食獣=女性
肉食獣の草食獣への食欲=男性の女性への性欲
裏市・食殺=男性向けポルノ市場・男性による女性のレイプ
(※左がBEASTARS内、右が現実社会)
解釈2:食欲=性欲、性欲=プラトニックな純愛・恋愛
これだけであったら、現実社会と綺麗に一対一対応のアナロジー構造を持っているだけなのであるが、ここで主人公のハイイロオオカミ(オス)、レゴシと、ヒロイン役にあたるドワーフウサギ(メス)、ハルの関係が乗ってくることでねじれが生じてくる。
肉食獣であるレゴシは最初、草食獣のハルを見た時に無自覚な食欲が暴発して我を失って襲いかける。レゴシはハルを食殺する直前にギリギリで思いとどまり、ハルにその正体を知られることなく姿を消す。
これを現実社会におけるアナロジーとして捉えると、性欲が暴発してレイプしかけたという話に近い。
その後、別の機会でまたレゴシはハルと出会う。そこで今度はハルがレゴシを性的に誘惑する。それ以来、レゴシはハルのことを性的、恋愛的な文脈で意識するようになる。
ここが面白いところで、もしもBEASTARS内の食欲を我々の現実社会の性欲を表すものとして捉えるならば、BEASTARS内の性欲は我々の現実社会のどこに行き場があるのか?うまく投射される先がない。
だが、あえて現実社会の中に投射先を見つけるとしたら
食欲=性欲
性欲=性欲抜きの純愛、恋愛
(※左がBEASTARS内、右が現実社会)
と見ることもできる。性欲と恋愛は別物であると捉える見方を採用すれば一応これは可能になる。
作中、レゴシはハルに対する自分の想いは食欲なのか?性欲なのか?と思い悩むことになる。そして、食欲を抑えるために牙を抜き、体毛をそり、厳しい修行をする。これは現実社会において性欲、煩悩を捨て去るための苦行を行う修行僧のようである。
だが、修行僧は性欲も恋愛感情も全てを煩悩として捨て去ろうとするわけだが、ここでは違う。性欲抜きの純愛の成就を目指すという姿勢と言える。
「自分のこの想いは性欲なんかじゃない!もっと純粋な愛なんだ!」
そう信じ込もうとする青年というのは昔から青臭い存在の象徴として語られる。こう考えれば、綺麗に現実社会と一対一対応できたじゃないかと思えるかもしれない。
解釈3:食欲=一回性の変態性欲、性欲=継続的関係を望む恋愛欲求
だが、そうはいかない。BEASTARS世界において食欲を満たすということは食殺を意味する。相手を傷つけ殺す。継続的な関係はそこに生まれない。一回性のものである。
一方、現実社会の性欲であれば、それを満たしつつ継続的な関係を築くことができる。セックスをしたからといって相手が死ぬわけでもないし、相手を必ずしも傷つけるわけでもない。そう考えるとBEASTARS内の食欲というのは、現実社会の性欲にシンプルに投射することができない。性的に倒錯した猟奇殺人犯は相手を殺すときにのみエクスタシーを感じる。その欲求に近い。これならば食殺同様に一回性のものとなる。
この解釈を採用すると以下のように言える。
食欲=女性を殺すことに一回性のエクスタシーを覚える変態性欲
性欲=継続的な関係を望む恋愛欲求
BEASTARS世界を現実社会に投射するならば、男性はみな女性を殺すときにエクスタシーを覚える変態性欲者だ。その変態性欲者集団の中の一人の青年が女性に対して変態性欲と同時に恋愛(純愛)感情も抱いた。相手を殺す時のエクスタシーへの渇望を持ちながら、相手との継続的な関係も望み、その狭間で葛藤する。
そう考えるとレゴシという存在はハル(現実社会における女性)から見ると、相当キモくて恐ろしい存在だ。それがBEASTARS世界における草食獣が肉食獣に向ける視線なのである。BEASTARS世界内においてそれを正面切って口に出すのははばかられ、政治的に正しくないことされている。だが、草食獣たちは内心みなどこかでそう思っている。
実際、我々の現実社会に目を向けても、近年のTwitter上でのフェミニズム系の主張などの中には「すべての男性は女性にとって危険な存在である。少なくとも女性からはそう見えている。そうやって男性は女性に不安を与えているのだから、それを自覚した上で自重して行動せよ」といった言説も見受けられる。その辺の状況をBEASTARS世界はアナロジーとして映し出しているようにも思える。「全てのセックスはレイプである」というアンドレア・ドウォーキンのような主張をする人もいるわけで。
ここで再び、BEASTARS内の構造を現実社会に一対一対応させた。これで一件落着かというと、そうもいかない。
オス・メス概念の投射先はどこか?
物語が進むとジュノというハイイロオオカミのメスが出てくる。彼女はレゴシに対して恋心を向ける。そこでBEASTARS内におけるオス・メスという概念に我々は改めて目を向けることになる。果たしてBEASTARS内のオス・メス概念は現実社会の何に投射さればよいのだろうか?現実社会における男女概念は、既に肉食獣・草食獣概念の投射先として占有されているのだ。今度はオス・メス概念がその投射先を失う。
あえて投射を成立させようとすれば、無理やり二重構造として捉えるしかない。BEASTARS内のオス・メス概念も肉食獣・草食獣概念もどちらも現実社会の男女概念を投射先とする、と。実際、そのようにしてねじれた構造として捉えた上で、心の中ですっきり納まりのつかない想いを抱えながら、物語を追っている人も多いだろう。
結局、BEASTARS世界内の構造を全て綺麗に現実社会に一対一対応させることはできない。そして、ねじれた構造を抱えたストーリーがどう動いていくのかは単純に現実社会に置き換えて考えることはできず、BEASTARSという作品内でのみ追ってゆける。こうして、読者、視聴者はBEASTARSの作品世界にのめりこんでいくことになる。ここがこの作品の一番の魅力になっている。現実社会のアナロジーとして作品の一部を捉えることはできるが、必ずそれでは捉えきれない部分が出てくる。一つの対応に注目すると対応の玉突き事故が起きていき、投射先、行き場のない概念が作品内に必ず残る。この不全感が気になってしまい、何度も作品を鑑賞することになる。
半分わかるが、半分わからないアナロジーの効果
心理療法家ミルトン・エリクソンはアナロジーやメタファーを心理療法に有効活用した。彼はアナロジーについて「アナロジーというのは、ちょっとわからなくて、30分から一週間ぐらい考え込んでわかるぐらいがちょうどいい」と述べていた。わからないからこそ、長時間ぐるぐると考え込む。その内容は無意識に深く刻み込まれる。BEASTARSは、エリクソン的な視点からは、わかる部分とわからない部分を両方持つという、非常に見事なアナロジー構造を含んでいる。
以前、井上陽水のインタビューにて、歌詞について「半分わかって、半分わからないぐらいがちょうどいいんですよ」と彼が言っているのを見たことがある。彼もエリクソン的な感覚をどこかわかっている人なのだなとその時、感じたことを思い出した。
ぼくはアナロジーを使う時、きちっと現実社会に一対一対応した綺麗な構造のものを思いつくし、使いたくなってしまう。そこであえて微妙に崩して、不全感を残す仕上がりにするのは結構難しい。
だが、そうやって多少崩した方が受け手側が時間をかけて自由な解釈を試みる余地が残るし、結果として無意識に大きな影響を与える可能性も高い。BEASTARSはこのアナロジーの崩れ具合が絶妙なのだ。著者の板垣巴留が、この構造を計算して設計したのか、天賦の才で自然と実現してしまうのか、偶然、本作では実現されただけなのか。それはぼくにはわからないが、とにかく見事なバランスだ。彼女の今後の作品も注目せざるを得ない。