できる仕事に限界はあるとしても自分の仕事に誇りを持つことだけはやめない。
自分の仕事に本当に誇りを持っているか、時折、しっかり考えなければならない。社会に認められないことを、イジイジといつまでも考えていたりするものの、その実、自分がいちばん、自分の仕事を認めていないということはありえることだ。
そして、そんな姿は、自分自身に対して失礼ではないだろうか。
特に発達障害の人は、いわゆる「成功者」のような職業的な成功は得られないかもしれない。もしかすると、世の中から見ると、単純すぎる仕事・卑しい仕事しかできないかもしれない。しかし、だからといって卑屈になる必要はない。大事なのは自分が自分の仕事に誇りを持つということだ。
少し前の本だけど、「納棺夫日記」にそのことを学んだ。
私もこの本を読んで自問させられた。本当に自分と、自分の仕事に向き合っているか!って。
私は大企業から、小さな店舗の経営から、現在はフリーのネット自営業まで、いろいろ経験してきた。どんどん沈んでいるように見えるかもしれないけど(笑)、自分の仕事に誇りを持って幸せに生きている(つもりだ。)
自分の仕事に正面から向き合う
死者に向き合う仕事は、偏見や差別の対象となる。奥さんの身体を求めたときに「穢らわしい!」と言われたエピソードなどは有名だ。友人たちも彼の元を去り、親族からも絶縁された。しかし、実は青木氏自身もコンプレックスを抱えていたのだ。何よりも、自分自身が、自分の仕事を卑下しているのではないかと気付き始めるのだ。
青木氏は、火葬場の人や葬儀屋と頻繁に会うにつれて、彼らが、自分たちの職業を恥ずかしく思っていることに気づくようになる。自分の職業を卑下し、自分自身を貶めているかぎり、仕事から満足を得ることなど不可能だろう。このことに気づいた青木氏は、真から誇りを持って納棺という仕事に向かい合うようになる。
「心が変われば、行動が変わる。早速、医療機械店へ出向いて、外科の医師が用いる手術用の衣服やマスクや薄いゴム手袋などを買ってきた。服装を整え、礼儀礼節にも心がけ、自信を持って堂々と真摯な態度で納棺をするようにつとめた。納棺夫に徹したのであった。すると途端に周囲の見方が変わってきた。」(P31)
「心が変われば行動が変わる」。医師の服装を身につけてから、湯灌をしている最中に「青木さんはどこの医学部を出ているのですか」と聞かれる。あるおばあちゃんには「先生」と呼ばれ、「自分の死んだ後は先生にやってもらえるか、予約できるか」と尋ねられる。
本当に誇りを持って仕事をしている人に、人は惹きつけられていく。なかなか、人に認められない。認めてくれない、その心をさいなむ声は、実は自分の声ではないのだろうか。自分が自分の仕事を正面から認めていないコンプレックスが生み出す声かもしれないのだ。
お金以上の価値観が必要
青木氏は、湯灌をしながら、死体と向き合い、だんだんと死生観に関する自分の考え方を構築していく。もはや、彼にとって仕事は、お金を稼ぐだけのものではない、もっと深遠な意味を持つライフワークになっていく。単に「稼げるから」「めったに経験しない仕事だから」そういう理由だけでは青木氏の「納棺夫日記」が陽の目を見ることはなかったはず。
そこにやはり、仕事と本音で向き合い、自分自身が誇りを感じている人の姿が見えるので、その熱に動かされた人が多かったからこそ、ベストセラーになったのだろう。正式に「原作」ではないけれど、納棺夫日記がモチーフになった「おくりびと」は名作だろう。
自分の仕事に誇りを持つ
発達障害と仕事の話である。ぐるっと回って戻ってきた(笑)
発達障害は「普通」ではないから、普通の人の成功法則は当てはまらないだろう。お金をできるだけ稼ぐとか、社会的な立場とか、いわゆるハイスコアの成功を求めると、無残に傷つくだろう。しかし、自分自身が本当に誇りに思える仕事を行っていれば(自分軸で納得のいく仕事)、仕事から満足感を得ることは可能だ。
今は「データ分析」の仕事を行う岩本氏(ADHD)の天職の探し方が興味深いので見てほしい。
他の人から、どうのこうの言われようと、自分自身が誇りを持って、「熱」を持って取り組める仕事なら、それで幸せだと言えるだろう。作られた幸せの基準、成功の基準は早めに捨てるのがよい。
栗原類君の発達障害本の中で、ピース又吉さんだって、いいこと言っているよ。発達障害者としての幸せは、多くの人が「格好いい」と思うようなものではないかもしれないけど、それでも、全然かまわないんだよね。
「人に尊敬されることが幸福な人は、尊敬されるようにやればいいんですけど、尊敬されるために生きているんじゃないってことを考えると、人に迷惑をかけないように、みんなの楽しさを尊重したうえで、自分が日々楽しく過ごすっていうのがベストだと思うんです。考えてみれば、 人間として完璧に、みんなに褒められるように生きて行く必要なんてない んです」
私は、死んでも納棺夫はしないけど(偏見ではなく、腐乱死体が怖いから)、どんな仕事にせよ、仕事と向き合う姿には無条件で学んでしまったのだ。また、納棺夫に戻ってきた(笑)