生きる意味と、病気になったという「選択」PART1

noteで今後投稿するにあたって、改めて自分が何故・どういう思いを込めて記事を書いているかついて、自分の生い立ちや病歴をさかのぼりながら語っていきたいと思います。


①生い立ち

生い立ちについて簡単にまとめていきます。(自分の性格に直結してくるので)

・幼少期(家庭環境)

自分は2人姉弟の長男として誕生しました。昔から喧嘩等の争いごとが苦手で、特に母親が姉をよく叱っていたのでどうやったら怒られないか、ばかり考えていました。また、夫婦げんかもよくあり、あまり反発しないことから自分にあたることも多くあり、常に機嫌を取る役回りをしていたため、人の機嫌を常に気にする性格になっていきました。多分今自分の特性であるHSPはここから来ているんじゃないか、と思います。

・学生時代

 学生時代は中学時代はいじめに近いいじられをされることがあり学校に行きたくない時期がありました。高校に入るといじられキャラとしていろんな人と仲良くなって楽しくやってきました。今思い返すとキャラになる=他人軸で生きているの極地だったと思います。自分が仲良くなるためには他人の自分に期待する人物像になりきっていかなければならない、という思いが強かったんだと思います。(高校に入ってからの反動が大きい)また、自己肯定感の低さを「友達がいっぱいいる自分=輪に必要な人材である自分ってすごい」、っていう考えで満たしたかったんだと思います。

まとめると
1幼少期から他人の目を気にしすぎる生活を送っていた
2自分に自信がなく、自信を持つ方法=友人をたくさん作るしかないと思っていてそのために、「自分を押し殺して他人の望む自分を演じて」きました

表面から見ると、たぶん自分は明るくて、親しみやすいという印象があるように見えるけど、実際は無意識のうちに相手に沿ってきたんだと思います。
相当人生に関する燃費がひどいですよね(笑)

②病気になるまでの経緯

 病気になったのは、社会人1年目の1月でした。自分が所属した課は相当忙しい課で周りはすごく忙しそうでした。自分は課の中でも大変な係に入りなれない日々を行っていました。なかなか忙しい職場の中で、雰囲気を察しすぎてしまう性格が影響して全然質問に行けない状態が続いていて、かつ「完全分業制」な部分があり自分の仕事は自分で行う、という風潮があったこともありなおさら聞けない状態に陥って仕事をどんどん抱えたままつらい日々が続きました。他人のせいにはあまりしたくないけれど、上司からの声掛けは全くなく、相談しても何もアクションがありませんでした。自分なりに残業もしながら頑張っていたのですが、年末に隣の先輩から「来年は逃げるなよ」と言われて完全に心の糸がプツリと切れてしまって、1月に入ってから仕事に行けなくなってきて、病院を受診した結果「重度の鬱病」の診断を受けました。

③1回目の復職

1回目の復職までは約1年3か月程かかりました。病気になって半年過ぎたころからデイケアに通い始めて、認知行動療法等を学びながら復職を目指しました。

④2度目の休職

 一度目の復職を果たし、同じ課の別の係に配属になりました。配慮された仕事量の元仕事を行っていたのですが、やはり係は変わっても仕事量は多く
相談できずに仕事が溜まっていきました。特に復職後は残業が禁止されており、歴代の残業ありきのスケジュールと比べると1か月程度の遅れが出ており、納品関係の苦情も入っていたことからストレスを抱えてしまって、恵まれていた環境にも関わらず、鬱を再発して休職になりました。

 長くなってきましたので、今回はここまでにします。今回は生い立ちから
2度目の休職に至るまでを振り返ってきました。

 幼少期からの生活の中で自分の中のHSPの特性が生まれ
自分の価値=周りの人間に囲まれている、だけだと思い込んでいたことがきっかけで、他人軸生き方をこれまでずっとしてきました。

 それがきっかけで職場での人間関係でつまづき、自己肯定感がかなりなくなってしまったことで鬱になってしまいました。

つまり
他人軸で生きる=自己肯定感の向上に悪影響が多い
ということになります。

次回はタイトルの本筋である、そんな自分が変わろうと思ったきっかけと、病気になってしまったことへの選択についてどう思っているか、について語っていきたいと思います。

 次回の記事でまたあいましょう~
ご一読いただきありがとうございました!!

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