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朝の寒さと青空と山
その日は雪予報でしたが、
雪は降っていませんでした。
電車を降りて職場まで歩きだしたら、日が照り出しました。
目の前の冬の空に、山の稜線がくっきりと映えました。
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朝の寒さに、青空と山がこんなに映えるとは。
この角度だからか、
この時間だからか、
寒さで猫背にならないように、
背筋を伸ばした時にたまたま目に入った景色だからか
その場で、その景色を見ているのは自分だけ。
人によって感じ方が違うことが、実に当たり前のこととして ストンと入ってきました。
自分の感覚は自分だけのもの。
「共感ありき」ではなくて、
何よりもまず自分固有の感じ方、感覚があること。
幼少期から親、兄弟、姉妹、教師、同級生、それから上司、同僚……、
集団の中で「相手と同じ感覚であること」を重んじられてきたと思います。
しかし、今、無理して
「相手と同じ感覚であること」を目指さない。
自分だけの感じ方を簡単には手離さない。
自分の感覚が、今のちょっとシビアな自分を救って、生かす。
すごい大それたことではなくても、
ドラッグストアで買ったチョコプリンがおいしかったことが、
その日の下向きな自分を
「おいしい」と 別のところに運んでくれたこともありました。
一方で「大それたこと」も、ありました。
手塚治虫の「火の鳥 鳳凰編」です。
手元にはありませんが、何十回も読み直してきました。
その壮大な物語は、両腕を失った我王(がおう)が、
深い絶望にあっても、
朝日に涙し、
口に彫刻刀をくわえて、仏像を彫り始めたところで終わります。
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腕を切られ、殴られ、断食があり、かなり痛い場面が多いのですが、
最後の数ページ、何度読み返しても、
清々しかったことを思い出します。
後日談:
手が悴(かじか)んでいたため、その日の朝の写真は撮りませんでした。
同じ通勤路を何度歩いても、
くっきりとした山の稜線に出会いません。
寒い朝の 特別の景色だったみたいです。
これは、
別の日、「寒さの記念」に草の上に残った雪を撮りました。
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