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かつて描いた心象風景と現実で出会った 【見つけたもの】

心象風景(しんしょうふうけい)とは、現実ではなく心の中に思い描いたり、浮かんだり、刻み込まれている風景。現実にはありえない風景であることもある。

Wikipedia『心象風景』 より

そもそも心象風景の絵を描いた理由


はじめに、私が以前描いた絵というのはこちらです。

自分が描いた心象風景

さて、この文を読んでいただいているあなたは、この絵にどのような感想を抱きましたか?

(考えられる感想の一例)「小学生の頃の夏休みの宿題?」「この絵には身の毛もよだつ恐ろしい真実が隠されていて…!?」

まず、どのタイミングでどのような手順で、この絵が描かれたのかについて少し触れておきます。

この絵は、数年前に心療内科で『風景構成法』による診断を受けたときに描いたものです。
心療内科に行った理由は、不安が強くなって睡眠が不規則になり、体調が安定しなくなったためでした。
かなり投げやりになって全てがどうでもよくなって、毎日寝て過ごしていました。時々勝手にわけもわからず涙が溢れるようになっていました。

ところで、『風景構成法』というのは、「医学者・精神科医の中井久夫氏によって1969年に創案された、絵画療法(芸術療法)の技法の1つ(Wikipediaより引用)」だそうです。
少し調べたところ、現在でも研究対象となっているようです。(下記の論文のように定量的な分析が行いやすいためでしょうか?)

『風景構成法作品と抑うつ・不安との関連』 現代行動科学会誌第29号, 1 -10 (2013) 阿部紗希、織田信男
https://cir.nii.ac.jp/crid/1390009224665146240

この手法の具体的な手順としては、「川→山→田→道→家→木→人→花→動物→家→石→その他足りないもの」の順に1つずつカウンセラーから描くように言われ、画用紙に1つずつ黒マジックで線画をし、全て描き終えてから最後にクレヨンで着色を行いました(手順については以下の動画がわかりやすいです)。
絵を完成させるまで、大体15分から20分ぐらいかかったように記憶しています。

私が絵を描いたときに思っていたことは以下の通りです。
・川を描く?(何も考えずに)じゃあとりあえず描きやすそうな左手側に小さめに描いて…
・えっ、次は山。川の上流に山を置いた方がいいか。あっ、川がジャマだ…えーーっと、あー失敗した。やり直したいけど…うーんしょうがないからテキトーに奥に描いて…ああ壁みたいになってしまった…
・田んぼ。じゃあ多分川の土手の向こう側にあるんだろうな。とりあえずこれぐらいのそんなに大きくないサイズでいいかな。
・道…は自然と川の土手のこっち(手前)側に置くしかないな。山や川に近い土手沿いの道は舗装されていて真ん中に白線があった方が道路っぽいな…
・家を描く。じゃあ田んぼがある側だ。平屋というか納屋みたいな簡素なイメージでサッと配置した。
・木か…うーんどこに置いてもしっくりこない気がする。仕方ないからさっき失敗した山の近くに林みたいにできないかな…うーん。微妙。
・人かー。この感じだと田んぼで農作業をしている人かな。
・花。多分川沿いに草むらがあって、そこにちらほら咲いてる。散歩の人がちらっと見るぐらいの。
・動物…えー川の中にまあまあ大きめの魚がいる。で、その魚影がこの視点だと見える気がする。
・ここで石?どの大きさでどこに置いてもしっくりこないな…手前側に大きな石が置いてあれば、まだ納得できるかな…うーん…
・足りないものか…まず土手をつなぐ橋。車が1台通れるかぐらいで、本当に必要最低限の。あとは…手前の草むらにトンボが2、いや3匹近づいて飛んでいるといいかな。夏休みの川沿いっぽい。
【絵の下描きが完成】
・色を塗るのはクレヨンか。まず塗りやすい道路から塗る。中央の白線がちょっと違和感。こんな交通量の少なそうな土手沿いの道路でわざわざ中央に白線を引かないよな…なんとなく道路っぽいけど。塗るとよりいっそう奥の山と木がしっくりこないな~。右下の空白には大きい草むらが広がっている気がする。飽きてきたのでクレヨンでガガガーっと塗りつける。ますます雑になっていってるけど、手前は力強い緑!って感じで塗ってるからいいのかも。
【色塗り終了】

そして完成した絵に対して、カウンセラーの方から当時いただいたフィードバックの内容はこちらです。

いかがでしょうか?

改めて感じたのが、『離人感』という言葉は私の人生にとって重要なキーワードの1つかもしれないということです。
ただ、これについては今回の主題から外れてしまうので、またそのうち書くことができればと思います。

今回重要なのは、以下の内容です。(フィードバックの資料に書かれていない部分は、口頭でいただいたものです)

・右下の草原から、未来が未定(空白)で戸惑いや不安が大きい
・舗装されたまっすぐの道路から、社会や現実へとつながる意識がある
・最後に付け足した飛び回るトンボから、他者の存在が感じられる

実際にこれらのフィードバックにどの程度の信憑性があるのかはわかりませんが、全てを諦めようとしていた当時の私にとっては、一筋の光明のように感じられたことを覚えています。
あと、しばらく期間をあけて通院した際に、担当の先生がこの絵を今でも時々見ていると言ってくれたことが、なんだかとても嬉しかったです。

心象風景を偶然見つけたとき

少し前、色々と行き詰っていた私は、電車や自転車を使って普段行かない場所に行き、そこで1日中散歩することが日課になっていました。
見知らぬ場所には自分が知っている人や自分のことを知っている人間が1人もいない上に、散歩は歩けば歩いただけ前に進むので、まだ気が楽になります。

そんな目的もなく1日中歩き回った夕暮れの帰り道に、見知らぬ川沿いを歩いているとき、不意に私はある不思議な感覚に出会いました。
それは、来たことがないはずのここを知っているという所謂デジャブよりは、「ずっとここへ来たかった」という思いに近いものでした。

橋の上から撮った写真

この日は3月中旬でありながら、朝から夕方まで快晴でじりじりと暑く、夕方には冷たい風が強く吹いていました。
確かこのときの時刻は17時だったと記憶しています。
印象としてはまず川があって、それに沿った道で犬を散歩させたりジョギングをしている人、川に30羽ぐらい漂っている鳥達をスマホで撮影している人、ママチャリやロードバイクでゆったりと走行している人達が見えました。
川に近づこうと歩いていたとき、やや小さめのグラウンドで高学年に見える小学生10人ぐらいがサッカーをして賑わっていました。
私自身も幼少期にこんな感じの特に整備されていない公園で、誰から誘うでもなく近所の子達とサッカーやキックベース、ボール鬼を毎日のようにやっていたなと少しだけ感傷に浸りました。

ここを歩いているだけで何か、過去の思い出のようなゆったりした時間の中に身を委ねているような、それでいて自分は決してここの内側にはおらず他所事を外から眺めているような、まどろみの中の如き朧げな感覚が同居していました。

橋をわたって土手沿いで撮った写真

1時間ぐらいかけて道を歩き、川にかかった橋を渡り、土手沿いの道に着いたときに私は、ついに冒頭で述べた『心象風景』と邂逅しました。

川、橋、土手の植物、山、道、石、農作業をしている人…。
これら1つ1つのパーツやアングルは、私が風景構成法で描いたものとは異なっていましたが、私が1枚の絵全体で表現していたものがここにはあるような気がしました。
私にとってここの風景は、心象風景を現実へ射影したものの1つのようでした。

私はこの日、あえてスマートフォンではなく持っていたデジタルカメラで、心行くまで何十枚も写真を撮り続けました。
もしかすると、カメラや写真というものは、こういうときの人の気持ちに応えるためにもあるのかもしれないと、人生で初めて思いました。
心の中から心象風景を描き出すには絵を描くという手段がとれますが、現実の風景の中から心象風景を探し出すには写真を撮るという手段が適している気がします。
前者は自分の中で他者や何かを見出そうとしていますが、後者は現実という他者の中から自分の中のものを見出しています。

今回の出会いは、風景構成法のフィードバックの「社会や現実へとつながる意識」を感じられたという点で、私にとって重要な意味を持つものでした。
この体験から私は、前向きなエネルギーを涵養させることに少しずつ意識を向けられるようになったと信じています。


最後に、このとき撮った写真の中で、最も心象風景に近いと感じている1枚を紹介して終わります。




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