家族が脳出血で突然倒れたことについてできる限り詳細な記録(1万字以上)

現実とは常に本番で、突如として大きな、あまりに大きく激的な変化を迎えるものである。


ある日の出来事

実家に帰省していたある日の昼下がり、家にいた母のスマホに突然電話がきた。
数年間、父が常連として通ってる店からだった。
「おたくのお父さん、今日様子がおかしいから迎えに来てあげて。」

なんとなく、嫌な予感がした。
こんな電話は今までには当然、一度たりともなかった。
一応免許と財布、スマホは持って、母と車で家を出た。
後から思い返すと、このときにノートとペンを持っていくべきだったと思わずにはいられない。

気が気じゃないまま、車内で母と少し喋った。
お互いに気を紛らわせるためだったと思うが、内容は思い出せない。
十数分後、電話をくれた店に着くと、ベッドに横たわった父がいた。
う〜んう〜んと唸り、家族の到着にも反応を示さなかった。
目がとろんとして、きょろきょろしている。
話しかけられても反応は鈍く、弱い。
店に着いたときから「頭がいたい」を繰り返し、この状態の一歩手前だったらしい。
ひと目見て、父の様子は明らかにおかしかった。
もう、これは車で連れ帰ることはできない状態だと我々は判断した。
店の人は救急車を既に呼んでくれていたらしく、それから数分後には救急車が到着した。

それから、その店の駐車場に停められた救急車では、十数分間は容態の確認や病院への連絡が行われていた。
ここで私にとって一つ問題が生じた。
それは、救急車に誰が同乗するかという問題である。
私は普段全く車を必要としない環境で生活しているペーパードライバーであり、急遽「一人で運転して救急車についてきて」と言われても、どだい無理な話である。
この時ほど、どうせ車には乗らないからと運転練習をしてこなかったことを後悔したことはなかった。
人生とは、本人の意思や準備とは無関係に、本番のステージに上げられることの連続だと改めて思う。

結果として、私が救急車に同乗して、母は一度家に必要そうな物を取りに帰ることになった。
今、冷静になって思い返すとこの判断は間違ってないように思う。
気が動転しているペーパードライバーでは、余計な事故を起こしていたかもしれない。

1つ目の病院には受け入れを拒否された。
2つ目の病院に受け入れが決まり、出発することになった。
私はすぐに救急車の後ろから乗り込んだ。
運転席の後ろに父は寝かされていた。
その頭上には小さなホワイトボードがあり、そこに先程母が救急隊員に伝えた情報(カタカナで父の名前、生年月日など)が書かれていた。
また、血圧計には「↑192 ↓162」という数値が表示されていた。

13:50〜 救急車内

聞き覚えのあるサイレンが頭上でけたたましく鳴り響く。
だが、うるさいはずの音は耳には全く入ってこない。
ガタガタと音を立てて揺れる車内で、父は苦しそうに呻き、しきりに身体を左側に倒したがっていた。
仰向けが苦しいのだろうか?
また、何度もあくびを繰り返していた。
これはおそらく脳出血なのだろうとなんとなく感じた。
救急隊員が父の顔を軽く叩き、「お父さん、これ何本?」と立てた指の本数を何度も数えさせるが、意識は混濁しているようで、「3本…」「右のこめかみが痛い…」「あ"ーう"ー」としか返さない。
「こっち側が見えてないのか、」と救急隊員が確認していた声がやけに印象的だった。

(実際のやり取り)
隊員「意識ありますか?これ何本?」
父「はい、」
隊員「これ何本?」
父「はい、」
隊員「今どこかわかる?」
父「はい、」
隊員「何本か答えて」
父「3本です、」
隊員「3本?」
父「はい、1本、」
隊員「ここが見えてないのか、」

車内は緊迫していた。
私はせめてこの時を忘れないようにと、スマホのメモにできる限り記録をつけていた。

14:05 病院到着

店を出発してから十数後、病院に到着した。
救急用の入り口から、父は担架で運び込まれていった。
とりあえず母に到着の連絡をした。
そして、今日は長期戦になると思った私は、すぐにトイレを済ませ、病院内のコンビニへ行き、飲み物2本と5号ノート(A6)とボールペンを買った。
ノートは父の容態や自分達の心境、病院からの説明やタスクを書き出す目的で買ったが、これはずっと役に立ったので良かったと思う。
数分後には母も病院に到着し、入り口近くのソファで座って病院側からの指示を待つことになった。

14:40〜15:00 担当医師からの説明

しばらくして、担当の医師の方から説明を受けることになった。
呼ばれた病室は薄いカーテン1枚で仕切られており、父が横たわり呻き声を上げるベッドのすぐそばで、パソコンの画面を見ながら説明を聞いた。
「まあまあな脳出血をしている。」
CT画像の白い部分が出血だと言われたが、5cm大だっただろうか。
サイズは大きかった。
「状態は重い、ですか、」
祈るように、思わずそう声に出て、聞いてしまった。
「…後遺症が残ると思います。」
ぴたり、とその場の空気が静止したように感じられた。
血の気がさぁっと引き、心臓がどくどくと大きく脈打つ。
待ち時間で覚悟はしていたが、実際にそれを耳にするとあまりの事実にショックを受けてしまった。
僕らの反応を見たためか、先生は話を変えて次は検査に移ることを説明していた。
とりあえず、180まで上がっていた血圧は「↑150 ↓132」まで下がったらしく、今からMRI検査を行うとのことだった。

そばに横たわる父の容態は、次のようだった。
服は着せかえられていて、下はオムツで上は薄い布を1枚羽織っているだけだった。
いくつもの管に繋がれて、絶えず血圧などのバイタルサインがモニタリングされていた。
ピッピッピッピッ…と絶えず電子音が鳴っていた。
右腕のみ肘から先だけ立てていて、時折足が跳ね上がっていた。
「あ"ーあ"ー」と唸り、うなされているようだった。
目の焦点は定まっていなかった。
看護師さんに見せられていた自分の名前の字がわからなかった。
身体の右側を下にしないと苦しいようで、ベッドの上でもがき、繋がれている管を引きちぎりそうになっていた。
家族や看護師の声掛けにも返事はしているものの、反応というより反射といった感じで、聞こえていないようだった。

この先一生、父がこのままだとしたら、もう二度と会話することもできないのかもしれないと、父の姿を見てぼんやりとそんなことを考えていた。
私の目からは涙が勝手に溢れてこぼれた。

15:30〜15:45 麻酔担当医師からの説明

また待ち合いのソファに戻り、必要な書類を何枚も記入していると、次は麻酔担当の医師から説明を受けることになった。
念入りに確認されたのは、「最後に食事や水分をとった時間帯」についてであった。
緊急手術で全身麻酔を行う際は、通常の手術と比べてリスクが高くなるためである。
6時間前に食事をしてしまうと、全身麻酔によって胃の内容物が逆流し、誤嚥性肺炎などの生死に関わるリスクがあるらしい。
今回は、通常手術のようなマスク換気は行わず、挿管によって胃の中には空気を送らないようにチューブで気管へ直接空気を送るやり方を選択するらしい。
その他、アレルギーや血栓のリスク、遺伝性の疾患などについての説明を一通り受けた。

15:50〜16:05 手術直前の最終説明

再度、担当の医師から手術直前の説明を受けた。
検査の結果、脳内の出血自体はとりあえず収まったらしい。
医師の先生の「左腕上げてみて」の声に、父は鈍く「はい」と応え、ゆっくり腕を上げていた。
それから、少し考えるようにして医師は「ちょっとね…視野を障害されているで…」と言った。
父は下ろすように言われても、まだ左腕を上げ続けていた。

続いて先生はパソコンの画面に父の顔の3Dスキャン画像をぱっと映し、僕らに説明を始めた。
ここで、また一つ我々はショックを受けていた。
後に母も言っていたのだが、この時に見た父の顔の画像データは灰色1色で生気のない、デスマスクのようであった。
普段の父は周囲の人から快活だと言われていたが、このデータで客観的に見た父の顔は、悍ましく恐ろしい怪物のような物でしかなかった。
人の顔というのは、その形状だけでなく表情や動きがかなり重要な構成要素なのだと、生の感覚にまざまざと見せつけられるようだった。

父の脳に5cm大もの大きさに拡がった出血は、手足を動かす役割の神経のギリギリに達していた。
それの意味するところは、もう考えるまでもない。
医師の先生は「際どいな…ギリギリだな…」と言っていた。
更に続けて、「今拡がった血をすべて取ってしまうと麻痺が進んでしまう」と言った。
「だから敢えて残す処置をします」と先生が言っていたときだった。
説明中に、医師の先生の子機電話に2度の着信があった。
「すぐにオーダーを入れてくれと急かされてます」とのことだった。
先生は「急いだ方がいいと思います」と言っていた。
周囲の看護師さん達も先程より慌ただしく動いていた。

手術のプランとしては、全身麻酔をし、頭を開いて、血を8割程度除去するというもので、3時間ぐらいかかるらしい。
最後に、医師は気がかりについて話していた。
単に血圧が高いことが原因で脳出血したのであれば、血を除いて手術は終わるが、AVMという最悪の可能性も考えておいてほしいと言っていた。
検査ではそれは見られないが、もしも切開をしてそれが見つかった場合には、手術の難易度が上がり、より専門の病院での数度にわたる手術が必要になるとのことだった。
この説明を聞いている時には、頭がいっぱいで受け止めることができていなかったように思う。

最後に、医師は「突然のことでびっくりされているとは思いますが、急いでやった方が予後はいいと思います」と仰っていた。
医師の先生はオーダーを入れて、そのまま父にも話しかけて、「今ご家族に説明してた通り手術して、大変だと思いますがリハビリやっていきましょう」と言っていた。
父はそれに「はい、はい、」と元気よく返事をしていたようだったが、空返事で、きっと理解はしていなかったのだと思う。
手術の同意書を書きながら、エコノミークラス症候群の説明を聞いて、父が手術室へ運ばれるのを待つことになった。
先生に一言、「どうか、よろしくお願いします。」とだけ言った。


16:30〜20:00 緊急手術

父は手術室に運び込まれた。
我々もエレベーターに同乗し、それを見届けた。
その数分後、母と二人で待合室に通された。

この時間、我々家族は手術が終わるのを待つことしかできない。
私は頼まれて、父の入院用のオムツとおしり拭きを買いに走った。
買うのは初めてだったのでドラッグストアの店員にどれを買えばいいのかを聞いた。
この日はご飯を食べていなかったので、菓子パン数個も買った。
病院に戻ると時間外入口しか開いておらず、警備員に改めて受付をさせられた。
気が気じゃないときはこういう小さなことでも動揺してしまう。
母は父と関わりの深い仕事関係の人達に連絡をしていたが、説明の途中で毎回泣いてしまい、うまく説明できていなかった。
改めて自分の言葉で説明をするのは辛い。
まだ我々も現実を受け止められていないのに、それを確認させられているようだ。
自分も分担で、かけられる人に連絡をした。

手術予定の時間は過ぎているのに、なかなか声はかからなかった。
窓の外は夕焼けからすっかり暗くなっていて、病院の廊下も静まりかえっていた。


20:20 HCUでの再会

看護師さんから呼ばれた。
HCUという、薄いカーテンで仕切られた広い部屋に入る。
周りの患者さんと合わせて、4人部屋だろうか。
看護師さんがすぐに駆けつけられるように開けた作りになっている。
案内され、カーテンを開けた先に父はいた。
とりあえず生きている父に会えた。

父の様子は次のようであった。
父は手術前よりかなりぼーっとしていた。
虚空を見つめているようで、横にいる家族のことも目に入っていないように見えた。
「どうしたらいいんだろう」「気持ち悪いよ〜」「家に帰りたい…」をうわ言のように繰り返していた。
ベッドの右側に立つ母は目に入っていたが、左側に立つ私のことは目に入っていなかった。
母のことはわかっているようだった。とりあえず安心した。
仰向けだと苦しそうで、何度も勢いよく起き上がろうとしていた。
その度に看護師さんが取り押さえていた。
吐き気が酷いらしく、時々顔を右に向けて袋に吐いていた。

このときの父の血圧は「↑128 ↓94」であった。
先生から、今晩は血圧を下げることが重要で、その為に看護師さんがすぐ来れるような体制になっているとの説明を受けた。
本当に頭が下がる思いだった。
「まず体重を落とさないとね」と先生が仰っていたが、本当にその通りで、前から何度それを言っても聞きいれてくれなかった父に、少し怒りを覚えた。
さっきの手術中までとは違い、ひとたび助かればこんな感情まで湧くのだから、人間とはなんとも欲深いものだと思った。
続いて手術についての説明を受けた。
CT画像に写る約10平方センチメートルの白い部分(すなわち脳内出血)のうち、8割程度は手術によって無事に除去できたらしい。
後は体内に吸収されるとのことで、手術前に受けた説明の通りだった。

「今日はこれで終わりです。また、明日早朝にお越しください。」と言われたので、すぐに帰宅することにした。
父は具合が悪そうであまり反応がなかったが、「また明日来るから」と言って部屋を出た。
廊下には誰もおらず、病院の夜間口から出た。
母とふたり、帰り道に「とりあえずよかったね」「どこまで回復できるのかな」「家族や他の人たちにどう説明しよう…」という話をした。
あと、「私達冷めてたね。父に『がんばれ!』とか言わなかったし、帰り際もササーッと退室してたし。」と言っていた。

しかし今振り返ると、この時の母と私はテンションがおかしく、気持ちが昂っていたように思う。
声がやたら大きかった気がするし、かなり疲労しているのになかなか寝つけなかった。
また実際は、冷めていたというより頭が現実の出来事に追いついていなかったというか、精神を守るためにヒューズを飛ばしたような状態だったのかもしれない。
今回のことで我々も無事では済まなかったのだと思う。
事実、私と母はこれから一週間以上、感情が安定しなかったり、家事や単純な作業でミスを連発したりしていた。

全く寝付けず、ベッドでスマホを使って「脳出血 後遺症」で検索して、失語症などの後遺症があることを知った。
さっきHCUで見た感じとりあえず喋れていたし失語症ではないな、脳出血は結構色々と後遺症残るんだな、などと思っていた。


翌朝 再度HCU訪問と先生からの説明

昨夜と同じ部屋に入室した。
まず、父に会った。
父の状態は次のようだった。
「スポーツドリンクを戻してしまった」と言っていた。
少し喋れるようにはなっているのかもしれない。
「口が乾燥、あつい」と言っていたが、身体に触れると冷えていた。
「頭痛いの減った」「頭痛い」と言っていた。
両手同時にチョキをしようとすると、左手は指が3本上がっていた。
今日はご飯を食べるらしい。

また、担当の医師の先生が、昨夜父が私に気づいていなかったことで気を遣ってくれたのか、私を指して「この人わかる?」と父に聞いていた。
父は私を見て、弱々しい声で「私の子供の〇〇です」と答えていた。
救われる思いがすると同時に、医師の先生は色々と観察していて、こんな些細なことも見落とさなくて凄いなと感心するばかりだった。

続いて、部屋を移動して先生から説明を受けた。
まず、後遺症は2ヶ月ぐらい様子を見るとのことだった。
また、開けた頭は大きいホッチキスの針でとめられていると聞いた。
そしてここからが肝心の内容だった。
「昨日はあえて言わなかったんですが…ご主人が出血したのは右頭頂葉といって、左の視野や空間認識を担う場所なんです。」
「はい」
「それでね、右方向をよく見てるでしょう。…左側は見えてるけど認識できてない可能性が高いです。今後のリハビリ次第ですが…ハンディキャップを背負うことを覚悟しないといけないかもしれません。」

後から調べて知ったことだが、これは「左半側空間無視(ヒダリハンソククウカンムシ)」と呼ばれる症状であった。
脳の高次機能障害の一種で、脳出血後に高い頻度で起こるようだった。
症状の出方も様々で、身体の左側への注意力が散漫になる場合、目の前の対象の半分しか分からなくなる場合などがあるらしい。
原因の解明や、治療方法は確立されておらず、予後を観察するしかないらしい。
【この症状に関しては、最後にまとめたいくつかの資料が参考になると思います。】

医師の説明を聞いてショックを受けていると、先生は次の言葉を続けた。
「実はですね、昨日これを言わなかったのは、命が助かるかどうかの状況だったからでしてね…頭を開いた時には、出血に圧迫されて脳が外に盛り上がってました。お年寄りなら脳に隙間があるんですが、若いと脳がパンパンなんです。」
もう、終わったことではあるが、やはりそんなに危ない状態だったのか。
想像もできないが、壮絶な現場だったのだと思う。

そして、リハビリの旬は大体これから2ヶ月間であると告げられた。
この期間を逃してしまうと、状態が固定されてしまうらしい。
自分で身の回りのことをやれることを目標に、しばらくリハビリに集中的に取り組むことが大事とのことだった。
最後に先生が「ご家族の声がビタミン剤ですから、お話ししてあげてください」と言って、説明が終わった。
私達家族は再度お礼を言って、父に会いに行き、病院を後にした。

私は命が助かって良かったと安堵していたが、母はこれらの説明を聞いてかなり強いショックを受けているようだった。
地方で暮らす上で、ある日突然車を運転できなくなったとしたら、これまでの生活や仕事はどの程度できるのか、これからの人生をどうするのか、個人では抱えることのできない問題に一気に直面してしまう。
遠方に住む私も当然できる限りの協力をするつもりだが、父と生活を共にする母のことを思うと、どうしようもなく暗い未来への不安とその苦しみを同じ場所で分け合えないことへの罪悪感を感じてしまう。

後日、他の家族に相談すると、「まだ確定してないんだから悪いことばかり考えるな」と言っていたが、確かに私と母は手術前後まで2人きりでどんどん思考がそっちへ向かってしまっていたのかもしれない。
母を励ませなかった自分の無力さが心底情けなかったが、それでも、「こんな時に相談相手がいてくれて本当によかった、心細くなかった」と母は言ってくれた。
家を離れるまでに、自分にできることだけでもしていかなくてはと強く思った。


術後1〜2週間

家でやれることをやった。
たまっている家事や父の仕事の関係者への連絡、父の持ち物の整理などをした。
本当は我々、患者の周囲の家族自身の心のケアをしていく必要があるのだろうけど、今はそんなことをしている場合じゃないと、母は目の前の仕事に集中していた。
心配で仕方ないが、今はそうするより他にない。

ただ、母がある時言っていたのだが、「頼れる大人が身近にいてほしかったな」という言葉が心に残っている。
今の自分にできる精一杯のことをしても、所詮私はお金も人脈も権力も余裕も殆ど持ち合わせてない若造で、一番困っている時に「どんと任せろ」と言ってくれる経験豊富な力強い大人がいれば、どれほど心強かっただろうか。
今回のことで人に優しくあるためにも、強くならねばならないと痛感した。


父の病室には時々訪問した。
コロナウイルスのため、未だに面会頻度や時間には制限があり、あまり行けてはいない。
が、父に仕事の連絡先の確認をするためということで、実はそこそこの頻度で面会をさせてもらっている。
父は最初数日は反応がかなり鈍く不安になったものの、我々が訪問すると表情を明るくさせたり、泣いたり、話したいことを一方的にバーッと話して疲れて寝たりしていた。
会話のキャッチボールはまだ難しいようだった。

父は何度も深夜に起きて、家族に電話をかけてきて病院に隠れて食べ物や氷枕を持って来させようとしていたが、当然医師の先生には止められていた。
どうやら、ご飯が合わないようで、ほとんど食べられないらしい。
先生や看護師さんに許可を取ったからご飯や甘いものをバレないように持ってきてくれと、明らかな嘘までついていた。
以前父は、同級生に入退院を繰り返しながら病院に隠れてしつこくお菓子をねだって電話をかけてくる、あまり関わりたくない迷惑な人がいるという話をしていた。
父は病室でその人のことを思い出して、「俺もおんなじことしてるよな…今ならわかる、気持ちがわかる、」と言って泣き続けていた。
可哀想だけど、医師に止められている以上、どうしても食べ物を渡しに行くことはできない。
ごめんよ。


また、ある日には「連れ帰りに来てくれないと家のガラスを割って入るからな」だとか、「もう下まで迎えに来てくれてるよな?」だとか、泣き落としのようでありながら苛立ちを見せて脅すようなことを言っていた。
この日はかなり追い込まれていたようで、「寒い。迎えに来て。頼むよ。病院の職員がみんな変になった。ここは脳の病院ではなく壮大な社会実験場かもしれない。怖い。怖いんだ。病院の人間に母さん(私の母のこと)も狙われたら危ない。頼むから2人で直接来て話をして来てくれ。頼む。頼むよ。俺がいつもの状態のうちに連れ帰ってくれ。本当に頼むから。」との電話が、午前1時、午前4〜5時に2回、午前6時、午前10時、午後12時〜13時、午後14時〜15時に各20分から30分ぐらい立て続けにかかってきた。
母も私も十分に寝られず参っていたが、電話に出ないとひっきりなしにかけてくるし、どのような行動に出るのかわからないので、聞くことに徹した。
その日のうちに父に会いに行くとどうやら落ち着いたようで、「悪い夢を見てしまって不安だった、すまない」と泣いて謝っていた。
調子が戻ったかなと思ったが、帰り際に私達家族が部屋を出ても、虚空の私達に向かって話しかけていたので、まだダメそうだなと思った。
ただ、左手を使ってカバンの開け閉めや握ることはできていたので、少しは進んでいるのかもしれないと感じた。
この日を境に、父の電話はやんだ。

自分でも驚いていることだが、病室で父にかけた言葉はポジティブなものばかりだった。
自分が父と同じ立場だったら、「もう人生どうでもいい…」とか言っていたに違いないが、「やりたい夢があるんだろ、諦めんなよ、付き合うから、人や運に恵まれてるからここから何とかなるよ」と、意外なほど口から勝手に自然と言葉が出てきた。
良くも悪くも他人事だからだろうか。


今後について

一体どうなるのだろうか。
父はこれまで通りの生活にどこまで戻れるのか。
もし左半側空間無視なら車の運転は当然厳しいだろうか。
父はリハビリや食事制限に前向きに取り組むだろうか。
私や家族は父の病気とどう付き合っていくのか。 
病気によって父の性格や人柄は変わってしまうのか。
これから悩みを相談できる人はいるのか。

悩みは尽きない。
未確定なことは悩んでも仕方がないし、どうしても悪い方向へ考えてしまいがちだ。
なら、とりあえず先のことは考えすぎずに今できることや現在の心情を大切にして、協力してくれるありがたい周囲の人達に感謝して行動していきたいと思う。

後悔について

  • このような緊急事態に備えて、家族内で仕事のスケジュールや連絡先などの情報共有をしておくべきだった

  • 普段から家の片付けや業務の効率化をして、緊急時のために余裕を持たせておくべきだった

  • 緊急事態の出来事の記録や片付けるべきタスク、連絡先について書きまとめておけるように、どんなときでも小さめのノートを持ち歩くべきだった(普段は持ち歩いているが、今回に限って忘れていた…)

  • パニックになっているときほど今の自分の状態を認識し、冷静になれるように訓練、もしくは仕組みを作っておくべきだった(手術後の数日間、私は書類の宛名書きを数回間違え、また普段は引っかからないあからさまな迷惑メールに動揺してサポートに連絡してしまった…)

  • 脳出血を予防するために食生活の改善や病院の受診をもっと強く働きかけるべきだった(…が、何度言っても頑固な人は決してこれらに取り組もうとしない。結果的に引き返せない状態になってから後悔してもどうしようもない。人間には予防や予兆の発見ぐらいしかできることはない。とはいえ遺伝や運にも大きく左右されると思うので、仕方がなかったことなのかもしれないし、私は本人ではないのでこれ以上言うのはやめておきたい。)


最後に

覆水盆に返らず、拡散現象、エントロピーの増大、災害、戦争、事故、殺戮、破壊、そして病気。
決して過去には巻き戻らない。
不可逆的な断絶が横たわっている。
リハビリをしようが、神に祈ろうが、どうやっても以前の状態には決して戻らない。
破壊と消滅、その後に訪れる新たな誕生と組織。
再生とは元に戻ることではなく、新たに生まれることである。
少しずつ状態を受け入れ、できることを一歩ずつ探して「今の自分のかたち」を見つけていくしかない。
現実はただひたすらに苦しくて動かせないことばかりだ。
それでも、たとえ醜くても情けなくてもどうにか生き続けようと足掻くのも、生きるということの一つの形なのではないかと私は思う。
本人が希望を捨てない限りは、私達家族も諦めたくはない。
その先に、どんなささやかなことでも、本人が生きがいを見つけられる日が来ることを願ってやまない。



参考になった資料

「脳卒中の発症から在宅までの過程 ~患者の立場になって考える~」
2022年9月30日 脳卒中リハビリテーション看護認定看護師 八巻亮平
https://www.nemotocl.jp/htdocs/pdf/20221014byouki.pdf



「不慮の出来事でのストレス反応について」 JAL健保
https://jalkenpo.jp/pdf/health/info_11031801.pdf


「半側空間無視:左のほうを見てくれません」
石合 純夫 先生(札幌医科大学医学部リハビリテーション医学講座)
http://www.neuropsychology.gr.jp/invit/s_hansokukukan.html


高次脳機能研究 第 28 巻第 2 号 「半側空間無視」 前田真治 
https://www.jstage.jst.go.jp/article/hbfr/28/2/28_2_214/_pdf#:~:text=半盲との違い,こと%20を特徴とする%E3%80%82




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