どこまでが主体性?
に、基づく判断なのかなと。
ふと夜な夜なインスタグラムを見てたら思ってしまったわけですよ。
素敵な雰囲気のカフェ、美味しそうなご飯、綺麗な写真映えする景色。
見れば見るほどに延々と出てくる情報。
行ってみたいな行きたい場所がありすぎてお金も時間も足りないな。
、、、ん?
果たして本当にそうだろうか。
時間をもて余してるが故にわざわざ自分から消費する対象を探してわざわざ出向こうとしているに過ぎないのでは、、、?
その行きたい場所、本当に行ってみたい場所?
仮に行ったとして、場所は素敵でもそこで話す内容なんて変わらない。素敵な場所に行ったところで自分という人間は良くも悪くももとのままだ。
ただお金だけが出ていくだけ。消費活動が捗るだけ。
それが明日への活力になるか?よし!明日からも頑張ろう!になるのか?
なったところで何のために?
お金を稼ぐため、お金は何のために?生活のため。生活とは?消費活動の集合体でしかない。
自分の主体的な選択に見えたとしても、それは本当に自分で考え自分で必要だと判断したものなのか?必要でもない外的情報に流されただけなのではないか?
お金を巡らせ経済活動を潤すための仕掛けがあらゆるところに蔓延ってる。
悪ではない。けど、本当に自分にとって必要なものなのか、価値のあるものなのか今一度問い質す必要はあるはずだ。
消費対象は悪ではないけれど、消費させようと伝達する側はグレーだと思う。私はね。
消費して消費して浪費して浪費して、
その先には何が残る?
何もかもがありすぎる時代だからこそ、
なるべくシンプルに、生きてみたいものです。
自分への戒めの意を込めて、書き連ねた秋の夜でした。
おわり