女から見たエヴァ(シン・エヴァ手前まで)
恥ずかしながらこの年でエヴァを通過した。
あの思春期の頃に通過しておきたかったが、まぁ今言っても仕方があるまい。
通過しないで死ぬよりはマシだ。
詳しい解説はいろんな人がしてくれているのでお任せするとして、
いやはや面白かった。
とても端的に言うならば、思春期の少年(青年前)のオナニーの壮大仕立て、という感じであった。
分かりにくいだろうが、褒めてます。笑
実際、逸話なのかもしれませんが、庵野監督がアスカの声優の方に
「自分が寝てる時にオナニーされたらどう思うか?」と聞いて出た答えが
旧劇場版のラストのセリフ「気持ち悪い」だったとか。
あのラストも賛否両論(世間的には否の方が多いのかな)あるようですが、
私から見れば(というか女側から見れば)あのラスト以外ないのでは、
と思うくらい秀逸な終わり方だったと思う。
結局、アダムとリリス、ATフィールド、使徒、エヴァ、色々あるけど要は
「みんなとひとつになって足りないところ(孤独、自責、心の闇のようなもの)を補完し合うか、
それとも足りない部分を抱えながらも一個人として生きていくか」
の戦いであり、ひとつになりたいと心底願いながらも、叶わない人間のどうにもならない無常さ、みたいなものをあそこまでの作品に仕上げる庵野監督は、
あっちゃんの言葉を借りればまさに「神オブザ神」である。
アニメ版の25、26話では、ミサトやアスカ側も描かれていたが、
旧劇場版では最初から最後までシンジの目線で描かれており、
それは独りよがりで自己満で、ナルシシズムに溢れた「気持ち悪い」ものに仕上がっていた。
だからどうやったってバッドエンドにならざるを得ない。
そういった目線で見ると、綾波レイが人造人間であることもめちゃくちゃしっくりくる。
綾波レイは、まさに「男の理想の女」だからだ。
物静かで、自分の意思を持たず、純粋で、世間知らず。
まさに「お人形」のような存在。
どうにだってできる、綾波を「守る」ことで自信すらつけさせてくれる。
反対に大きく、包んで癒してくれる存在でもある。
だがそんな女はどこにも存在しない。だから人造人間なのだ。
所詮は男が「作り出した女像」なのだ。
実際の女はミサトでありアスカだ。
複雑で、感情的で、弱く、それゆえ強さに憧れる。
それでいてどこか急激に冷めている。
あのアニメが作られた時代背景も影響しているのかな、と思った。
女子高生の援助交際が取り沙汰されていた時代。
それが、1980、90年代であった。
女の「性」が売り、売られていた時代。
碇ゲンドウにとってのユイ(シンジの母親)像にしても、
独りよがり感が否めない。
実際、碇ゲンドウに対してユイ(ここではエヴァ初号機)は幾度となく反抗を見せる。
結局、碇ゲンドウにしても、何も見てはいないのだ。
自分以外は。
あっちゃんは「結局碇ゲンドウの純愛物語」と言っていたが、
果たしてそうだろうか?
「偏愛」の間違いでは?
偏愛を純愛に昇華したい男の途轍もなく壮大で身勝手な行動、のようにしか見えない。
とにかく旧劇場版は、男の、男による、男のための映画、という印象が強かった。
だから新劇場版ではミサト(赤木リサ)とアスカはゲンドウに対抗する側にいるのではないだろうか。
つづく(かもしれない)
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