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「ポジティブ日記」が書けない

今年の春から、心療内科でカウンセリングを受けている。

私のなかに生まれるネガティブな感情が、抗うつ剤および抗不安剤の摂取により減衰を見せているが、それでも残存しているように感じること。それがもはや「症状」に拠るのか、私の思考のクセに拠るのか判別できないこと。

それを医師に相談したところ、臨床心理士によるカウンセリングを提案された。


私が受けているのは「認知行動療法」というものらしい。

大雑把にいうと――少なくとも私の理解では、ということだが――、考え方のネガティブなくせ=スキーマを自覚し、そうでない思考法に持っていけるよう改善を試みる療法だ。

この療法においては、ワークつまり宿題のようなものを課されることがある。

直近で感情がネガティブに動いた出来事と、その時の心の動きをメモするとか、そういうものだ。

ワークがあることそれ自体に対し不満があるわけではない。

ただし、私は目下そのワークに困り果てている。

直近で課されたワーク、「ポジティブ日記」が、書けなくて書けなくて仕方ないのだ。


「ポジティブ日記」とは、その日あったポジティブなこと、良かったなあと捉えられたことを箇条書きで良いから書く、というものらしい。

そして、上述の通り、これが書けなくて、よしんば書けたとして毎日同じような内容になってしまい、困っている。

本を読み終わったとか、映画を見たとか、そんなことばかり。

果たして「こういうの」で良いんだろうか、と思いながら、Googleドキュメントに日々それを書き留めている。

ポジティブ日記と題されたそのドキュメント名からは、あまりポジティブな雰囲気を感じられない。


これは、断じて治療の効果を訝しんでいるのではない。

ただ、私の書く「ポジティブ日記」が、「本当にこういうもので良いのか?」とか、「我ながら全然書けてねえな」とか、そういう「はにゃ?」とか「どんより」を生んでいることを言いたいのだ。

畢竟、私はポジティブなことを書くのが、箇条書きでも苦手だ、ということだ。


それを改善するためのワークだ、と指摘されれば何も言い返せない。

ただ、それにしたって限度ってのがあるだろう? と自分自身に対して思ってしまうのだ。

「久々にインドカレーを食べた。美味しかった」じゃねえよ、舐めてんのか? という話なのである。


そういうわけで、私は今日も、「ショボい」ことを「ポジティブ日記」と称して書き記す。

見せたときの、臨床心理士の反応を少しだけ怖がりながら。

こういうことでいいんだよな? とへっぴり腰になりながら。

こんにちはポジティブな日々は、相当遠そうだ。

ああ、次のカウンセリング。怖いなー。怖いなー。



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