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親の前でカマトトぶっていた頃
子供に向けて使う言葉というものがある。
車の「ぶーぶー」、犬の「ワンワン」などはその代表格だろう。
これら幼児語と呼ばれる言葉は、子供の発話を促すため、大人から子供に向けて使われることが多い。
子供に向けて使う言葉は、それらだけではない。
もう少し喋れるようになった幼稚園児ぐらいの子供に向けては、「お人形さん」とか「ゾウさん」とか、「さん付け」をして擬人化した言い方をすることもある。
これは、親から子供に使う場合もあれば、子供自身が使う場合も多い。
さて、高校生の時分のことだ。
その日私は、両親と一緒にスーパーマーケットに出かけていた。
鮮魚売り場を通りかかったとき、父は私に「ほら、お魚さん」と言った。
死んだ魚に「お魚さん」も何もないだろう、と思ったが、もちろん問題はそれだけではない。
先述の通り、そのとき既に私が高校生であり、幼稚園児や小学生ではなかった、ということだ。
自分で言うのは滑稽だが、子供は大人――もちろん親も含まれる――が思うより賢いものだ。
大人から自分がどのように扱われているかが分かれば、そこから「何を期待されているか」を悟る。
常々察しが悪いと自覚する私も、先述のエピソードから流石に推して量るものがあった。
それは、自分には「子供」それも小学校低学年ぐらいの無邪気さや幼稚さが求められている、ということだった。
少なくとも私は、そうでなければ高校生の息子に「お魚さん」などという言葉は使えないだろう、と解釈した。
話は、別の日曜日に移る。
私の家では、日曜日の昼はテレビ朝日系列で「新婚さんいらっしゃい」を見るのが恒例だった。
その番組は、名前の通り新婚の夫婦をスタジオに招き、桂文枝と山瀬まみが夫婦に馴れ初めや互いの不満や好きなところを訊ねる形式のトーク番組なのだが、ゲストがゲストだからであろう――昼の番組にしては、ややアダルトな内容が非常に「ぼかされた」形でトークに闖入していることが管見の限り多々あった。
「それで勢いでホテルに行った、と――」
「夜のほうがちょっと僕が乗り気じゃないときも――」
私も当時高校生だったから、それらが何を意味するのか、なんとなくのことを察するだけの知識を持っていた。
しかし、上記の通り、父は私に「子供」であることを期待していた。
そして、家族で見ているわけだから当然そこに父もいた。
だから私は、その下ネタを「分からない」ふりをする必要に迫られることとなった。
つまり私は、息子でありながら、親の前でカマトトぶっていたわけである。
ホテルに泊まるのがなんで「いよいよ」なんだろう?
「誘う」ってなんだろう? 一緒にスマブラでもしたのかな?
「シー」って、なんで海に行くことがそんなにアダルトなことなんだろう?
両親が爆笑するなか、それに釣られぬよう、そんなさも「分かっていない」ふうの顔をして私は平然としているほか――言葉の意味が「わからない」のだから笑いようがない――なかった。
その時間は、限りなく拷問に近かった。
私とて、そこで一緒になって盛り上がりたかったわけではない。
むしろ昼から見るには下品なそのネタに笑う両親に対し、少し苦手意識を持ってすらいた。
しかしそれよりも、カマトトぶっていたことそれ自体を不意に思い出しては、今なお敗北感やら、恥ずかしさを覚えてしまうことが、どうにも悔しくて仕方ないのである。
ラブホテルに行ったってことだよ、セックスしたってことだよ。
もちろんデートかセックスの誘いだろ。スマブラなわけねえだろ。
Cってのはセックスの古い言い方だよ。何が海だよ、バカじゃねえの?
そんなことを思っては、一人赤面してしまいそうになる。
しかし、当時の私に、他にどんな対応が出来たかと問われると、今なお私のなかで答えは出ない。
さて、最後に私事で恐縮なのだが、最近私は父からいよいよ「『いい人』はいないのか」と訊ねられるようになってきた。
もう「お魚さん」のモラトリアムは終わったということらしい。
私の年齢と、世間の「普通」を鑑みたときに、そのこと自体は特に不思議なことではない。
子供は確かに阿呆だけれど、大人が思うほど何も分からないわけではない。
だから、言っていることは「分かる」つもりだけれども、どこかやはり、悔しいというか釈然としない気持ちもまたあるのである。
いやあ、だって、「お魚さん」だろう? と。
この歳になっても、今だに思い返しては、そう思ってしまうのである。