バカとつき合うなとは言うけれど
「バカとつき合うな」という本がある。
キングコング西野亮廣と実業家の堀江貴文の共著である。
出版社の紹介ページには「あなたはなぜ自由でないのか? 答えは簡単、バカとつき合っているからだ!」という言葉が躍る。
そしてこの本は、共著者2名による最強の教えであるらしい。
一時期、書店のビジネス書コーナーに平積みされているのをよく見かけた。
しかし、この挑発的なタイトルはどうなのだろう。
無論、これが戦略的なものであることは理解できる。
煽情的にすることで、「おや?」と思わせ、購買意欲を刺激するのだ。
気になるのは、この文言でどのような人が「釣れる」のか、ということだ。
「バカとつき合うな」と「簡単」なアドバイスをされているのは、「自由でない」「あなた」――。
すなわち、「バカ」のせいで、自分は「自由でない」のだ! と、タイトルおよび表紙を見て思うような人である。
私はこの記事を、くだんの本を読まずに書いている。
だから、タイトルだけで憶測するバカとか、斜に構えてえらそうにしているバカとか罵られても仕方ないつもりでいる。
しかし、とはいえ思うのだ。
その本にどんな内容が書かれていようが、まずその本が平積みされていて心動かされたなら、その時点でもうその人は「勝ち」ではないか、と。
その啓発書に救われるまでもなく、すでに救われている人ではないか、と。
ああ、「バカ」のせいなのか!
あるいはそこまで行かずとも、「バカのせい? さもありなん」と思う。
そのような人は、少なくとも自分が「バカ」であるとは思わないのではないだろうか。
ということは、その人はむしろ、周囲の人のことを「バカ」と見下せる自信家である、ということになる。
世間でよく聞く話では、そのような傲岸な人は周囲から人がどんどん離れていくという。
しかし、会社員として勤めるほどに強く実感するようになったのは、そのような人ほど「社会人」として「強い」ということだった。
たとえば、私の元上司は、裏でよく「あいつにあんなこと分かるわけないだろ」とか「営業なんて、頭悪いのに全部分かりたがるんだよ」と、平気で人を見下すことを言っていた。
しかし、彼はそう言うほど自信家たるが故に、業界内に多くのコネクションを作り、「面白いね」などと言われているのだった。
そして実際、彼のプレゼンテーションは明朗であり、「なんか素晴らしいことを言っている」感に満ち溢れていた。
私は、自分に対して自信を持っているほうではない。
むしろ、自分の不出来な部分ばかりに目を向けてしまう。
くだんの本を見たらば、即座に「自分のようなやつのことを言われているのだろう」と思う側の人間だ。
人のことを、バカだのなんだの言うほうがおかしいと感じてしまう。
とはいえ、この性格が功を奏したと思う経験もない。
だから、これを「私の思慮深さです」と披瀝したいわけでもない。
ただ、そんな元上司とは、あまりにも性格が異なるなあ、と思うばかりだ。
なにか学べるものもあるのかもしれないが、何から学べばいいのかまるで見当がつかない。
バカとつき合うなとは言うけれど、私にはそのつき合わざるべき「バカ」を見定めるほどの自信がない。
しかし、不出来な部分に目こそ向けども、バカを自認して、大手を振って街を歩けるほど面の皮も厚くない。
中途半端な、それこそ自意識と呼ぶべきものを抱えたまま、どうすることもできず、くだんの本に共感したり感銘を受けたりしそうな、あるいはそういった人らの救世主たりえるような「強者」たちの過行くさまを、見つめることしかできない。
バカとつき合うなとは言うけれど、その他さまざまなことが言われるけれど――。
そういう啓発書とは、私は全然仲良くなれそうにない。
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