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あのラーメンはもう二度と食べれないし、叔父にももう二度と会えない

大学近くの海鮮系の定食屋が閉店した。学生や卒業生らはそのことをSNS上で大いに嘆いた。私もその一人だった。

その定食屋の陰で、人知れず閉店したラーメン屋があった。

今日は、そのラーメン屋での思い出を語ろうと思う。忘れられない、ある年の4月21日のことだ。


その日は授業がなかったので、私は家でぐっすりと眠っていた。

するとスマホが震えた。九時。画面には見知らぬ番号が表示されていた。

「はい、もしもし」と出ると、電話先で相手は父の名を口にした。

「いえ、違います」と私は自分の名を言った。おそらく私の家族の知り合いであろうと思ったからだ。しかし相手はオロオロとするばかりで、どういうことなのだろう? と考えているうちに電話は切れてしまった。

数分後、また同じ番号から電話がかかってきて、相手は父の名を呼んだ。今度は相手も名乗った。東京に住む母方の親戚だった。私がまた「違います」と、自分の名を告げると、電話は切れた。

この時点で不審に思っても良かったのだが、私は「どうしたのだろう?」とだけ思い、そのまま再び眠りについた。


一四時過ぎ、また電話がかかってきた。父からだった。

「なんだろう?」と思って出ると、父は「叔父が危篤だ」と告げた。「おそらくもう持ち直さないだろう」「今際の際だ」——。

「なら、そっち行くよ!」と私は言った。

すると父は、「いや、間に合わないだろう。お前はそこを動くな」と言って電話を切った。

そのおおよそ三十分後、父から電話がかかってきた。

叔父が息を引き取ったことを伝える電話だった。


死んだ母方の叔父には妻も子供もいなかった。

だからだろう。自分で言うのも恥ずかしいが、私はけっこう可愛がられた。

幼稚園から小学校低学年にかけては、よく四の字固めをされた。

町内会のソフトボールチームに所属している私に、バッティングフォームを教えてくれたのは叔父だった。ゆったり構えることを、小学生向けのユーモアとして「ちんちんぶらぶらソーセージ」なんて言っていた。

兄弟がおらず、父も体調の都合で運動ができない環境にあって、叔父はそういう「悪い親戚の男」の役割を担ってくれていた。

一方で、偏食である私が美味しそうに食べた料理があると知るや、同じものを買って、彼の住む家から車で20分ほどの我が家に届けてくれた。

数ヶ月前、病に冒された痩身の彼を見るのは、だから心が痛んだ。


死んだ瞬間にすべてが終わるなら、葬式をする意味はあるのか、という問いがある。

しかし、それでも人は死者を悼もうとする。それは、その人とちゃんとお別れするためであり、日常生活に戻るための儀式でもあるのだ。

あとは、実際には魂が存在して葬式のさまを見られるとしたら邪険にはしづらいという意見もあるかもしれないが、今回は触れるに留める。

兎角、私も通夜と葬式には出るものだと思っていた。

しかし、叔父の死を伝える電話のなかで父は「お前は来なくていいから」と言った。

「もう必要な人はみんな揃っている」「だからお前は帰ってくる必要がない」「お前には授業があるだろうからそっちに出ろ」。


電話はそのまま切られた。

思いがけないことを言われ、私はパニックになった。頭や心は激しく動揺しているのに、しかし身体は動かなかった。

ようやく動けるようになったころには、もう当日中に地元に帰るには間に合わない時間になっていた。


私は、どうしようもない気持ちを落ち着かせようと、ひとまず自宅の周囲を歩き回ることにした。目的地などなかった。ただひたすらに歩きたかった。

瞬時に動けなかった、なにも言い返せなかった自分が許せなかった。

しかし、もう今さらそんなことをするような気力は残されていなかった。


叔父はガンだった。最初のガンは、すでに切除していた。

私が大学に進学したあとで、転移が見つかった。

思えば私が浪人していた夏の大雨の日、叔父は足が痛そうにしていた。その場所は、ガンが転移した場所と一致していた。

私が浪人せず大学に受かっていれば、母ももっと叔父の病態に気を配れ、病院に連れて行くことができただろうか。そうすれば、叔父は死ぬことはなかったのではないか。

自分が「必要な人」にカウントされなかったのは、器量も悪く、ただ「出来損ない」だからなのではないか。

そんな「悪い妄想」ばかりが頭を巡った。


歩いているとき、腹が鳴った。

こんなときにも腹が減る自分が情けなかった。

くだんのラーメン屋には、そんな折、ヤケクソで立ち寄った。


どうにも自傷的に金を使いたくなり、いつもは頼まない高いラーメンを頼んだ。

どうせ胃がもたれるくせに角煮ラーメン。

それを一人、カウンターの席ですすっていると、いつも古い歌謡曲を流している店内のスピーカーから、ある曲が流れ始めた。

それは、郷里が同じく、また母と同じ大学出身の歌手の曲だった。

その曲は前編にわたって、私の出身地の方言で歌われていた。


できすぎたシチュエーションに思わず苦笑したが、反応してくれる人は誰もいなかった。

私は、世界にたったひとりぼっちでいるような気分だった。

この日以来、私は方言を使っていない。


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