スイッチを指の背で叩くと
自動ドアには2つのタイプがある。
一つは、人が近づくことをトリガーとしてドアが開くタイプのもの。
もう一つは、ドアの特定の箇所に手を近づけるまたはスイッチを押すと開くタイプのものだ。
今年冬から始まった「パンデミック」において、例のウイルスは接触感染することが盛んに言われていた。
だから、手指のアルコール消毒が大事である、と言われていた。
思えば、飲食店や駅ビルの入り口に消毒用アルコールが置かれているのにも、いつの間にか慣れてしまった。
この接触感染に関して、エレベーターのボタンは指の第二関節で押すのが良い、という言説がインターネット上で拡散されたことがあった。
誰かがそれに「指紋を残したくないヤクザのやり方じゃん」とツッコミを入れていた。
警戒したい気持ちは分かる。
それに、そういった「アドバイス」を実行に移すことで、感染への不安やそれに伴うストレスが軽減されるなら歓迎すべきことだろう。
しかし同時に私には、それが広まるとちょっと立つ瀬がないな、と思ってしまう「やましさ」がある。
というのも、私も上述の自動ドアのスイッチを指の背で――すなわち「第二関節」で――押しているからだ。
そして、それを私はもう数年前からずっとやってきているからだ。
数年前からパンデミックを警戒していたというわけではない。
そもそも私はエレベーターのボタンを今も指の先で押しており、感染症対策のみを考えるなら「不徹底」の側にある。
また私は、自動ドアのスイッチに指紋を残せないほど、危ない橋を渡る人生を送っているわけでもない。
ならば何故、そんな「風変わりなこと」をしているかというと、いつか始めたそれが癖になってしまって止められないに過ぎないのだ。
またその始まりも、スイッチを指の先で丁寧に押すことが、なんだかちょっぴり恥ずかしかった、という極めて滑稽な動機だった。
スイッチを押すとき、全ての指で行くと押す対象に全てが乗り切らず、そこまでやるのはなんだか無駄なような気がした。
しかし、指一本で押すのは、E.T.の真似事みたいで、成人男性がやるにはちょっと「ぶりっ子」がすぎるように思われた。
とはいえ、手のひら、それも指でない「腹」の部分で張り手みたいに押すのも、これまた滑稽な感じがした。
そんな、かなり「極端なケース」ばかりを並べた実践と、自意識過剰な試行錯誤の末に当時の私が編み出したのが、人差し指の背で、スイッチを叩くように押すことだった。
それこそが、一人で街を歩く成人男性にとってベストに思われたのだ。
以降、それをやり続けた結果もはや矯正することも面倒になり、そのまま現在に至っている。
このやり方には、二つ問題がある。
一つは、背で勢いよく叩くので、しばしば「しっかり痛く」なり、叩いたあとで「イテテテテ……」と、手をヒラヒラさせてしまうのだ。
「えいっ」と言うかのように、指一本でスイッチを押すのと比べてどちらがダサいかと問われると、正直ヒラヒラさせるほうに軍配を上げざるを得ない。
しかし、自意識で言えば「えいっ」のほうが恥ずかしいのだ。
だからこの悪癖は、矯正される機会を失い、そのまま持続されてしまう。
伊坂幸太郎に『ゴールデンスランバー』という小説がある。
堺雅人主演で映画化もされたこの作品の主人公・青柳には、エレベーターのボタンを親指で押す癖がある。
これは、わざわざそう設定されている以上、作品上でとある「意味」を果たすことになる。
しかし、私の悪癖はどうだろう。
どう考えても、これが何らかの「役に立つ」とは到底思えない。
私の悪癖のもう一つの問題点は、感染予防しているふうに見えることだ。
実態を見ればできていないが、そのシーンだけ見れば、私はさも「とても気を使っている」人に見えてしまう。
そしてこれは、自意識的に言えば、「えいっ」と同じぐらいに恥ずかしく感じる。
そう思われて損なことも特にないだろうに、私はその「実態とのギャップ」や「そう思われる」によって、ひどく恥ずかしく感じてしまう。
しかし矯正すれば「えいっ」である。
無論、上記以外の「良い方法」が思いつき、かつ習得できれば別だが――。
そんなふうに、スイッチの押し方一つで、私は自意識に苦しめられている。
歳を取れば気にしなくなる、というのは、少なくともこの歳まで生きてきた実感で言えば「嘘」だった。
私が本当に欲しいのは「気にしない心」なのだが、それは難しいと諦めて、いつも「これなら自意識的に大丈夫」と思える妥協点を探し求めてしまう。
いつまでこんなことをすればいいのだろう。「気にしない」になりたいが、そんなことを気にする時点で、土台無理な話なのか。
些末すぎる苦悩は続く。
これはきっと、ニュー・ノーマルでは解決できない。