短編小説「モノクロの少女」

 『モノクロの少女』

 あれは今から半年程前の事だ。仕事終わりの僕は自宅でスマホを弄りながら、日課のネットサーフィンを嗜んでいた。SNSで話題になっている情報に目を通したり、よく見ている動画投稿者の新作をチェックしたりの巡礼作業。果たしてそれが自分への幸福価値に繋がる栄養になっているかと聞かれると些か口籠る物ではあるが…。まあしかし、これが僕の日常であり暮らしである事に違いは無い。それが内向的な性格の自分が辿る最もらしい適合進化であると信じよう。話が少しそれてしまったが、何せその日も僕は同じルーティンを繰り返していた。

 ふと、目に飛び込んできたのはSNSの広告。漫画アプリとか出会い系アプリがよく表示されているアレだ。その時見た広告は妙だったんだ。昨今の広告は何だかホラーよりというか胸糞系?ああいうので目を引く手法を取っているってのはよく理解していた。でもそれは真っ白な画面にモノクロの少女が描かれているだけだった。説明文も一切なし、最初は誰かの投稿画像かとも思ったのだがプロモーションである記載だけはしっかりとしてあったので疑う余地は無い。何だかよく分からないその広告を僕は興味本位からタッチした。画面がパッと切り替わって表示されたのはアプリストア。やはり何かのアプリか…と少しばかり残念な気持ちになりながらも、中々大胆な宣伝をするなぁと思いアプリの説明欄に目を落とした。だが、そこには先程同様に説明が何1つ書かれていないのだ。それどころかレビューすら何もない、真っ白なアイコン画面とインストールボタンが表示されているだけで他の欄は全て空白。怪しいと思いつつ気づいた時にはインストールを開始してしまう自分が居た。得体の知れない物をスマホに入れる抵抗感は多少あったが、それよりもこの不可思議な現象に対する高揚感の方が数段上回っていたからだ。

 アプリのダウンロードが終わり、緊張のあまりじっとりと手汗が滲み出しているのを感じながら正体不明のソレをタップする。数秒の沈黙の後、ロード画面や企業アイコンの表示すらなく真っ白な画面が唐突に現れた。そして画面の遠くから少しずつ、あのモノクロの少女がこちらに向かって歩いて来るのが確認出来た。そして少女の容姿が分かる位置まで来た時に改めて気づいた事がある。何というかかなり簡素で記号的なデザインだなと。黒でベタ塗りした長髪とテンプレ的な制服姿、この姿だからこそ少女であるとギリギリ認識出来る程度の味付けだ。恐らく学生服でなければ、黒髪の女性と僕は答えていただろう。デフォルメされた顔からは年齢も正直性別すら特定する事は不可能で、ただ学生服を着用しているから、直感的に少女なんだと思わせるデザインだった。

 暫く、画面を見つめていると画面下部に黒縁の枠が表示されている事に気づいた。僕が認識したと同時にピコピコしたSEが鳴り、文字が打ち込まれていく。

『初めまして、調子はどう?』

 モノクロの少女の口元がぱくぱくと開いては閉じてを繰り返す。話しかけてきたのか…やはりノベルゲーか?いや、育成ゲームの類だろうか。AIと会話して知能を育てるアプリとか聞いた事あるし、対話してくる事を考えると何やらそういうゲームっぽい雰囲気があるしなぁ。そんな事を考えながら、独り言の様にうーむやあー、といった唸り声を出して思案していると。

『こっちが質問してるのに、云々唸るのは失礼じゃないの?』

 と表示されていた。思考が読まれた?なんて、そんな事がある訳ない。恐らく時間がかかり過ぎると自動で更新されるテキストなんだろう。そう思いながら、次の台詞に移ろうと画面をタップするも一才の反応が無い。あれ…おかしいなぁ、アプリのバグか?なんて事を思っていると。

『だから、こっちが聞いてる事に答えなさいよ!貴方は私と違って声が出せるんでしょ?調子はどうか?って聞いてるのよ!』

 これには正直驚かされた。音声認識で会話をするパターンの作品かぁ…結構昔からある仕様ではあるが現代ではある意味新鮮だ。よし、ひとまずは答えてみるかと声を絞り出した。

「えー、えっと。元気だよ。えー、君は何者?」

 少々吃りながらも質問に答える。それでもってこちらからクエスチョンを投げかける。これでこのアプリの真価をはっきりさせるってもんだ。僕の質問に答える事が出来ないなら、所詮は前時代的な音声やり取りのゲームに過ぎないと考えたからだ。

『それは良かった。まあ私が何者かって聞かれるとそれを難しい問題ね。貴方だって急に、何者なんですか?って聞かれたら答え難いでしょ。"僕は人間、身体には臓物が詰まっています。"なんてね。じゃあ"私は電子人間、身体にはプログラムが詰まっています。"って答えられたら良い所かしら』

「す…凄い。想定以上の解答じゃないか…」

 思わず漏れ出した独り言にも気付かず1人、感得している僕を他所にモノクロの少女はまたも喋り始める。

『あら、感動してくれるなんてありがたいわね。寧ろこの程度で感情を動かされてしまう事こそ、人間が人間垂らしめる証拠かも…。まあ良いわ、1つ聞きたいんだけど…答えてくれるかな?』

 モノクロの少女の目元が薄く細まる。僕は急速に渇いた喉に生唾をごくりと漫画的に飲み下す。この異様な状況に対しての疑問や違和感なんてどうでも良い。僕は直感的にこの少女の問答に続かなければならない焦燥を劇的に感じ取っていたから。

「何でも聞いてくれ」

『貴方、宇宙から見た鯨の円形生物と片方の角が折れた甲殻類の衝突を見た事があるかしら』

 この意味不明な問い掛けを聞いた瞬間、僕は気が遠くなるのを感じた。それはまるで夢と現実の境目に立ったような、起きているのか寝ているのか分からなくなってしまったみたいな感覚。脳の知覚する全てが縦向きになって公転し出した気分だ。モノクロの少女の表情がやけに立体的に見え出す。ぱくぱくと動いていただけの唇からは厚みと艶やかさが帯び始める。一度、二度、少女が瞬きをする。イラストの瞳から憐れむ様な懐かしむ様な視線を酷く感じる。だが、それは居心地の悪いものでも無いと言える。この後、僕の意識は一旦途切れる。だけどこの感覚だけは一生忘れないだろうし、この後の人生で再体験する事は残念ながらないだろう。

 次に意識が覚醒した時に感じたのは、びっしょりと汗で濡れたシャツの気持ち悪さだけだった。ぼんやりとした思考回路を巡らせながらも、スマホの電源を入れてモノクロの少女アプリを探す。しかし、ホーム画面に例のアプリは存在しない。アプリストアの履歴を見てもインストールをした形跡が無いし、アプリの広告を探そうにも見つける事が出来なかった。これは僕の夢だったのだろうか、混濁する思考の中で最後に理解したのはもう会社に遅刻しそうな時間になってしまっていた事だけであった。
 
「おい!お前これで何度目のミスだ?こんな誤字、書類の最終チェックをしていれば出るわけないだろ!第一、お前の怠慢のせいでー」

 くどくどと説教を垂れる上司に首を垂れながら、午後の仕事は終わりに差し掛かる。仕事が出来ないのは僕の能力不足で、怠惰な性格や人に助けを求められない性分が災いしているのは間違いないだろう。しかし、僕に割り振られている仕事の量は1人でこなすには些か、いやかなり多い。理不尽な羽目に陥ってるのは分かっていたが、この泥沼から抜け出す方法を僕は知らない。今の仕事を辞めても、後がない事をよく理解しているから。

 電車に揺られる。僕と同じく帰路に着くのであろうサラリーマンや学生達がチラチラと視界に入り込む。色々とあった今の気分ではスマホを触る心にもなれず、ただ呆然と虚空を見つめていた。生きているのか、死んでいるのか、雑然とした感覚だけで吊り革にぶら下がる人間が僕なのか。出入り口の真正面に立つ僕はそのガラス窓に映る自分の全身がよく見える。こんな筈じゃない人生だったのではないのか、誰しもがそういう事を思うのだろうけど今の僕は誰よりもドン底だ。だってそうでも思わないとやりきれないじゃないか、実際がどうとかこうとかもっと苦しい人が居るとかそんな事はどうでもいい。これは僕自身の内在的な問題なんだから。

 憂鬱な考えに耽りつつ、窓の外を流れる景色を見つめる。一瞬で過ぎ去る風景に安らぎを覚えつつあった所でトンネルに差し掛かる。窓の外の暗闇、数秒の暗闇、トンネルを抜けた先での風景。窓ガラスに反射して映るのは僕の姿では無かった。あのモノクロの少女が其処に居たのだ。

『鯨、来るよ。まん丸の円形鯨がね』

 少女のテキストフレームが同じく窓ガラスに表示される。直後、暗転。電車内の電灯が消えて辺りが暗闇に染まる。先程とは違う、周囲の全てが見えない暗さ。乗客達の響めきの声が辺りに満ちていく。混乱する人々のやいのやいのの叫び声が徐々に大きくなり始める。だけど僕の心は酷く安心していた。安寧が全身を駆け巡り、脳がのぼせたような気がする。数分が経った時に一つの違和感に気づく。現代社会では多くの人がスマホ等の電子機器を持っており、それらは照明の機能を有する。だからこの電車内がずっと暗いのはおかしいのだ。この状況以上にその状況があり得ない筈なのだ。僕はポケットに手を突っ込み、手探りで自分のスマホを取り出す。電源ボタンを押しても何一つ反応が無い、そこでようやっと周囲の声に耳を傾けると皆もその現象について会話をしているようであった。

「怖いよ…「なんで明かりがつかないんだ「電源が入らない「おい!いつまで「どうなって「助けは「一旦何が「怖い「責任者を「約束の時間が「どうなって『ほら、来たよ』

 突如、窓の外に雷鳴の如き光が轟く。空には巨大な丸が浮かんでいる。そいつは鯨の顔面に酷似していて、黒く瑞々しい表面をしながら浮遊していた。呆気に取られた僕はただその光景を注視し続ける事しか出来なかった。鯨はその巨大な口を開き、真っ二つに切られたボールの様な見た目に変形していく。それと同時に周囲の光りが鯨の口の中に吸い込まれていくんだ。街中に溢れたありとあらゆる光がその中に消える。まるで馬鹿なこの世の終わりの風景だった。電車内に取り残された僕達は窓の外に映るその光景をただ黙って見ている。

『次はあの子が来るよ』

 聞こえた。またあの声だ。さっきも聞こえたあの声。直感的にその声の主がモノクロの少女である事は僕には分かりきっていた。そしてその声が僕にしか聞こえていないという事も。円形鯨の捕食ショーが冷めやらぬ中、空に亀裂が入り始める。びりびりと空間が破れる様子は、何かが網戸を無理矢理突破しようと突き進み、きめ細やかな張りが抵抗虚しく裂けて穴が開くようだった。その穴からは2本の角が飛び出している。しかし片方の角は先端部がポキリと折れているようだ。徐々にその姿の全容が確認出来る所まで来ると余りの異形に言葉を飲んだ。全身はダンゴムシなのに頭部の周りには蟹の爪がびっしりと並んでいる。並んでいるという表現はライオンの立髪の様に蟹爪が首元をぐるりと包んでいるのだ。そして触覚っぽく見える2本の角が猛々しく天を向いている。その蟹ダンゴムシは空間の裂け目から全身を抜け出すと空中をぷかぷかと進みながら円形鯨の口元に行進していく。

 タチの悪い夢か、これが現実の光景なのか、僕は未だ白昼夢の中に閉じ込められた憐れな人間なんだろうか。2匹の奇妙な生物の衝突を僕は電車の窓から見つめる。電車の窓?電車の窓…はたと気がつくと僕は自分が電車の中に居ない事を理解した。それどころか、先程まで同乗していた乗客全員が僕の周りに居ない事を知った。今僕は宇宙に居て、眼下に広がる地球の全体像を自分の目で確認していた。そしてこんなに離れた距離から見える筈が無いのに、円形鯨と蟹ダンゴムシの小競り合いが窓から見ていた時の光景と全く変わらずに見えるのだ。二つの視点が脳の中で同時中継されているみたいに…。

『こんな面白い光景、中々見れる代物じゃないからね。私に感謝しなさいよ』

 モノクロの少女が地球を片手で持ち上げる程の大きさになり、宇宙を漂っていた。おどけたようにケラケラと笑う姿は最初に見た簡素なデザインからは想像も出来ない人間味を帯びている。

「君は僕に何故この光景を見せたかったんだ?君は一体…」

『意味なんて無いわ。きっと、君も私もね。この世のありとあらゆる不条理や有形無形の物事の形。どれもこれも正しく無いし、間違ってもいない。笑うのも笑わないのも同じ』

 モノクロの少女はそのまま地球を掌に乗せると、くしゃくしゃと紙を丸めるように潰してしまった。そうしてひとしきり笑った後に静寂の宇宙に消えていく。彼女の黒い髪と学生服は宇宙と完全に同化して、その白い素肌も恒星の光に溶けていく。僕はその全てを泣いて笑って受け入れていた。やがて来る終わりも、今存在する人生の難題も何もかも、ただその起こりうる状況の全てを噛み砕き、飲み干していくからまだ救われるんだと気付かされたから。

 次に意識が戻った時、僕はいつものように自分の家に居た。ニュースを調べても円形鯨や蟹ダンゴムシの事なんて報道していない。でも確実にさっきの体験は今日の出来事だった。僕はあの後どうやって家に帰ったのかさえ分からない。でも凄く晴れやかな気分であった。鬱屈とした感情の全てがせせらぐ川の安らかな音色に癒されて消えてしまったみたいに、どろりと根深い芯の黒い部分が絆されたんだろう。

 あの日から半年が経つ。僕はあれからもモノクロの少女とは再会出来ていない。まあ特段、探すつもりも無いけども。あれ以来、日課のネットサーフィンの時間が少しばかり減った。今はその分の時間を文章を書く事に費やしている。記録というか、日記かな。ただモノクロの少女との出会いを書くに至るまでは少しばかり時間が掛かった。あの時の感覚を文字に書き起こせるか不安だったから…でも取り敢えず書けた。そう書けたんだ。だから僕はこれを電子の海に放流させて、モノクロの少女に届く事を願う。僕の世界の形を変えてくれた、白と黒の記号に感謝を込めて。

 

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