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変な時間に起きたので。
1:30くらいに寝て5:00に起きるの相当やばい気がするんだけど大丈夫かな?
多分大丈夫じゃないけど目が覚めちゃったからなあ。
今日は18時に帰れるといいなあ(無理)
昨日は裕介さんの写真めっちゃいいよねの話が楽しかったです。
いきなり昔の写真にRTとかついたの驚かせたらごめんね。(今日の日記パート終わり)
前々回私は「とにかく推しを褒め倒したい」という話を書いた。
眠気の中で書いたが紛れもなく本心。けれどそれとは別に常々考えていることがある。
それは『言葉は重くないか』ということ。
期待というものはかけるのは簡単で無責任なくせに負わされる人にはなかなかに重いものだと認識している。
「頑張れ」は一体どこまで言い続けて良いのか、麻雀を好きになる前からずっと考えている。
何故こんなに面倒なことを考えているかと言うと、私自身が期待されるのが苦痛だからだ。
詳しくは省くがまあ期待を裏切り続けた半生なのでその分他人に期待することの残酷さも少しは理解している。
とにかく期待、応援ってものはもらってる間は嬉しいものだけどそれに応えられないことが段々と重くなる。
いつか見捨てられないか、失望させないかという恐怖に変わる。誰も悪くないのに勝手に枷が増えていく。
そうやってどんどんと積み重なるものに耐えられなくなって潰れてしまうのを何回もやった。
うるせえ、お前らが勝手に期待したんだろうと跳ね除けるような性格でもなかったので本当にしんどかった。
期待ってものはしんどいものだという理解をしているのにそんな私が他人に簡単に託していいものだろうか?
それも私以上に期待され、私以上に応えるべく努力をしてきた人たちにこれ以上を課すのは正しい事だろうか?
よく「鬱の人に頑張れを言ってはいけない」と聞く。
理由は知らんがだいたいは想像できる。頑張ってるもんな。ずっと。
今も頑張ってるのにもっと頑張らないといけないのか、今の頑張りは足りないのかって思っちゃうもんな。
努力の否定のつもりはないのも知ってるだけにモヤモヤだけが積み重なる。積み重なった。私はそうだった。
期待される側の性格にもよる気がせんでもないが私は私がされてしんどかったことを他人にやって良いのか?が今もわからない。
でも、応援されるとやっぱりどうしようもないくらい嬉しいものなのも知っている。
期待とは基本的に好意で構成されるものだからだ。
好きだから、強いから、あなただから。
自分のために気を割いて言葉を投げてもらえることが本当に嬉しい。頑張ろうって気持ちにもなる。なった。
この嬉しい気持ち、体験も知っているので私は応援をしたいと思っている。
それに前々回書いたが罵声なんかに目にいかないくらいの好意の言葉で埋め尽くしたい。
その方針は今もこれからも迷いながらも変わることはないと思う。
私は私の持つ限りの語彙で推しを褒めるが好きだ。
だけど、私は推しの重荷になりたくない。
期待はしている。推しには勝ってほしいしそれ以上に後悔のない選択をしてほしい。
だけど、後悔してしまった時に私の言葉を思い出してほしくない。
矛盾した心を抱え続けて私はそれでも今日も明日もこれからも推しに期待して応援を続けていく。