母から絶縁を言い渡されて住んだ部屋のこと


一人暮らしの事はもう少し後で纏めようと思っていたけれど、ぴったりのテーマを見つけたので記録。

2年前の夏、私は家を出る事になった。同時に母から絶縁を言い渡された。

母は愛情深く私を育ててくれたのではあるけれど、気に入らない事をするとすぐに不機嫌になる人だ。特に私の恋愛や結婚に関しては非常にナーバスになっていて、私は婚活の相手が気に入らないと何度も母から罵られ、皮肉を言われ、無視などの嫌がらせを受けたのだった。

そんな時、母の反対を押し切って結婚相談所で出会った男性から、真剣交際の開始とともに一人暮らしを勧められた。

彼は、「母親から逃げるべきだから10日以内に借りる部屋を決めてくるように。それが出来ないのならこれっきり交際は辞めるよ」と告げた。そして、約束だよ、きっとできるよと夜景を前に断言してくれた。

私は帰ってきて一言、父親に家を出る事を告げた。母は私が反対を押し切って男と会ったので、無視を決め込んでおり話にならなかった。父は、せめて治安の良さそうな場所に住んで欲しいと、文京区への移住を勧めてきた。父は味方にしたいのでなるべく意見に沿う事にした。

その後、父親を通じて、母が私と絶縁するつもりでいる事を告げられたのだった。

当時、私は埼玉県の浦和に勤務していた。仕事が終わるとすぐに近くの不動産屋に駆け込んだ。雨の日だった。

私と同い年だと言う不動産屋の青年は、閉店ギリギリに駆け込み、浦和の支店で文京区に住みたいなどと突飛な事ばかり言う私に呆れた顔をしていた。これが部屋探しか、無知とはこういう事かと思った。

結局、その後は父親が部屋探しの主導権を握ってしまったのだけど、最終的に駅近のマンションに決まった。文京区、駅から徒歩1分、オートロック付き。父の愛が目一杯詰め込まれた好条件に、給料の3分の1もの大金が家賃と消えた。

引っ越しの8月27日、私は浮き足立っていた。朝8時。私は母親に、「今までありがとう!」と元気いっぱいに告げた。母は素っ気なく、目も合わせず、「こちらこそ、至りませんで」とだけ言った。

父と2人で、運び込まれるベッドを組み立て、机を組み立て、冷蔵庫の搬入やガスの開栓を眺めた。父が実家へと帰った後、すぐに彼が部屋に泊まりに来てくれて、いい部屋だね、良かったねと喜んだのだった。

初めての自炊。卵を焼く事だけで精一杯の私に、遊びに来たついでにオムライスが食べたいと呑気に言う彼。まな板も満足に置けない狭い台所で、必死で作った。ひとつしかないコンロで効率よく肉じゃがと味噌汁を作ろうとして悪戦苦闘していた。初めての洗濯。洗濯機が自動で水量を計算してくれるなんて思いもよらず、洗濯物を手で持っておおよその重さを推定して、水量を手動で設定していた。午後から雨が降ると知らずに干したシーツ。洗うたびに端からどんどんほつれていく安物の足拭きマット。

そしてあっという間に約半年が過ぎ、3月になった。私はこの部屋を去る事になった。私を家から連れ出してくれた彼は夫となり、私達は夫の社宅に引っ越す事になったのだった。プロポーズを受けたのもこの部屋だった。

引っ越しの日、私は最後の掃除を終え、ゴミ出しをしようとゴミ捨て場に向かった。そこで声をかけられた。

「ここのゴミ捨て場は、指定のゴミ袋はあるんですか?」

大事に育てられたのであろう初々しい雰囲気の男の子と、大事に息子を育てたであろう優しそうなお母さんが、私に尋ねた。私が今日ここを去る事なんて、もちろん知らずに。

私は今日来たばかりの男の子にゴミ出しについて教えてから、なんだかバトンを渡したような気持ちで部屋を引き払って新居へと向かった。

1年後には息子が誕生した。あの時「10日以内に家を決めなかったら交際を辞める」なんて強気な事を言っていた彼も、すっかり夫として私の尻に敷かれてしまっている。育児で飛ぶように毎日が過ぎていくけれど、あの濃厚な半年間の思い出は今でも時々記憶の隅から取り出しては楽しんでいる。

ある時夫に「あの時10日間というタイムリミットを作ってくれてありがとう、あれがなかったら、私はずっと変われなかったよ」と言ってみたら、「僕、そんな無茶なこと言ったの?」と返ってきたので吹き出してしまった。

そして、蛇足のように付け加えてしまうが、私達の婚姻届に証人としてサインしたのは、「あの部屋」で夫と話しあった末に意気投合した、絶縁したはずの母親なのだった。

#はじめて借りたあの部屋

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