伊坂幸太郎『オーデュボンの祈り』
あくまで私の感想です。
ぜひ「他にこう感じた!」と思った方は教えてくれると嬉しいです。
なお、本文はネタバレを含むので本書を未読の方はご注意ください。
物語の醍醐味はこれ
この物語を読んで、
彼氏の家に遊びに行った時に、家族と仲良く話してる彼氏を横で見て、彼氏がちょっと遠い人になったような、そんな感情を思い出した。
『オーデュボンの祈り』は、自分はその世界の内側にいるのに、世界の外からその世界を見ている感じ、みたいなお話でした。
コンビニ強盗未遂をしてパトカーから逃げ出した伊藤。
目が覚めると萩島、という外の世界から隔絶された島にいた。
外の世界から来た伊藤は、日比野という男との出会いや、喋るカカシ・優午との対話、不思議な少年・桜との出会いなどを通して、どんどん島の日常に溶け込んでいく。
しかし、物語の最後で、伊藤は日比野たちの会話を聞きながら、こう思う。
このように、伊藤は改めて自分が「外部の人間だ」と考えるまでになったのである。
そんなことを考えるのは、きっと自分が「内側にいること」に違和感を覚えなくなっていたからだろう。
しかし、面白いのが、最終的には静香に、荻島の慣習を説明する側に立っていること。
このように、この物語は「内側と外側」を上手く表現しているのですが、それは大袈裟で、少しカッコつけた言い方な感じがします。
誰しもが感じたことなある、ほんの少し「ああ、ここは自分の世界じゃないんだな」とふいに悟るような感覚、
それが一本の物語として、丁寧に語られているような感じです。
そして何より、この物語は伏線も爽快に回収され、気持ちの良い終わり方をする1冊です。
自分も分かるな、この感情…となりながらも、すっきりとした気持ちで本を閉じる事ができる、素敵なお話でした。
物語の「レイヤー」
この物語は「(世界の)内側と外側」という二極対立で考えるものではないと思います。
世界は、ティッシュを1枚1枚重ねたような、薄いレイヤーが何層にも重なっていて、それが少しずつ互いの世界に作用しているんだなと。
そして、このお話を通して私が考えたのは、世界の"外側の人"に会うのはいつも、内側の輪郭に立っている者なのかもしれない…ということです。
それは外から城山に連れてこられた静香にとっての伊藤だったり、目が覚めたら萩島にいた伊藤にとっての日比野だったり…。
伊藤はコンビニ強盗未遂をした「犯罪者」だし、そう考えると外部の世界の中でも、より外側の方にいた、輪郭の方にいた存在なのかもしれない。
静香だって、そんな雰囲気はあった(よね?)
二重の意味で「世界の外側」にいた人々が、島のキーパーソンになっているんだなと思いました。
優午について考える
そして、物語の中で一貫していたのは「世界の外側の人間が全てを知ってる」ということ。
名探偵の例が出てきたり、割と強調されていましたよね。
伊藤も、ある場面で突然閃いて、物語の展開を進める場面が鮮明に描かれていたように思います。
すごく印象的でした。
そして、他にも「全てを知っている」人物がいましたよね。
そう、優午です。
「世界の外側の人間が全てを知ってる」構造を当てはめると、優午は、萩島の内側にいたのにずっと外側にいたような感じだったんだろうか、と思いました。
これは、伊藤のように「外から見て、あそこは自分の居場所じゃないんだな」とふと感じるのではなく、
そこが自分の居場所なのに、自分の居場所じゃないと感じる感覚なんだと思います。
学校の先生みたいに、コミュニティの内側に立っているのにどこか外側にいるような?
明日、自分が引っ越すのに友達の誰にも言わずに学校で過ごしているような?
ほか、萩島にいる異質なものとして認識される人物に桜が挙げられますが、優午と桜は全く違う。
学校の先生には異動や権威があるし、桜には拳銃があるけど、彼はそこから動けなかった。
そして、唯一、自分の心を守った方法が、島民「役割」を与えることだったんだろうな、と感じました。
無力なオーデュボンが鳥の未来を祈るように、優午も、目に見えないようほどの糸を手繰り寄せるように、祈っていたんだろうな、と思います。