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伊勢丹

真昼間の新宿伊勢丹前を歩いている時、イヤフォンから銀杏BOYZの「十七歳」が流れてきて、というか、襲ってきて、思わず号泣しそうになった。

プレイリストの中にある曲でも、イントロから桁外れな音量と五線譜の規格外で荒れ狂う銀杏BOYZの曲は、プレイリストをシャッフルしていきなり脳に一番近い器官で流れ出すことを許すには、不意打ちにも程がある曲群だ。
想定内なのに予定外なのだ。
そのまま五線譜を縦に振り切り鼓膜を叩き割るギター音で、東京を、新宿を、ましてや伊勢丹前を、どうにか体裁を繕いながら普通の新宿区民として暮らしている僕を、否応無く東京の圏外に、つまりは僕の十代に引き戻してしまう。

そうだ。僕はパンクが好きだった。

日本語の日本語による、日本語を解体するようなパンクロックが好きだった。
銀杏BOYZもサンボマスターもブランキー・ジェット・シティもミッシェル・ガン・エレファントも小島麻由美も初期の椎名林檎も好きだった。

信じていた。

東京へと出て行く前、ギターをやってバンドもやっていた友人が私の家に来た。
話したいことがある、と言って。
でもそれをなかなか切り出さなかった。

彼は私の椅子でウイスキーをシングルのストレートで七杯飲んだ後、「おまえがいま聴いてる音楽をいつまでも聴いていて欲しい」と絞り出すように言った。
その一言を残して、じゃあね、と帰った。

本人はもうそのことを覚えてないだろう。

そしてその台詞がどれだけ私を今日まで縛り続けているか知る由もない。

どうしてこんなことになるのだろう。
峯田和伸とサンボマスターの山口隆の対談が掲載されている『風とロック』を買って、読んだ。

峯田は記事で「サンボマスターは人と人を繋ぐ曲だと思うけど、俺らは人を孤独にさせる曲を作っている」と言った。ああ、と思った。
だからこんなに、大勢で聴くにはあまりに赤裸々で、一人で聴くにはあまりに痛々しいのか、と。
確信犯だったのだ。
汚ねえぞとは思わない。そもそも音楽はそうであるべきだ。

新宿伊勢丹のゴシック建築は、その前を歩く人に、大人であることを要求する。

紳士淑女であることを要求する。

歌舞伎町が反紳士反淑女であることを要求するなら、まさにその対蹠点としてだ。
あるいはチープファッションを是とするユニクロやH&Mを拒否するように、ただ一点しかないものを探して愛せよと要求する。

おまえはちゃんとそのための金は持っているか、稼いでいるのか、と。

僕らがいつか決定的に引き裂かれることになるのは、そんな明るい日差しの午後の、なんてことはない都心のどこかに於いてだと思う。

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