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誰の金で飯を食ってると思ってんだ 〜毒親育ちの年末年始〜

1. はじめに

昨年末、クリスマスを過ぎたあたりから、急に父が連絡してくるようになった。内容は「いつ帰ってくるの?」「寂しいから帰ってきなよ」などというものである。わたしは「忙しいから」という理由で、やんわり断っていたが、父が頻繁に着信を入れ、留守電まで入れてくるようになったため、家に帰りたいと思わない、ほんとうの理由を話すしかないと決意し、メッセージ上で父とやりとりをした。
これは、機能不全家庭育ち、いわゆる毒親育ちのアラサーが迎えた年末年始の記録である。


2. 父との実際のやりとり


新年のメッセージの前に折り返しの電話を求める留守電が入っており、仕方なくメッセージを送った。そして、いつから「父ちゃん」なんて自分のことを呼び、こんな甘えるような口調になったのかも謎。昔は「俺」と言って支配的な口調だった。

追撃メッセージを無視していたら、着信と留守電が入っていたため
家に帰りたくない理由を送った。
後述するが、わたしには生まれつきの病気がある。

「犬」とは、わたしが8歳くらいの頃から実家で飼いはじめて、18歳(わたしが26歳ごろ)まで生きた犬のこと

後述する「〇〇(母)とは子どもの育て方で何度も喧嘩して、それを間近で見せられてかわいそうだった」という旨の一文とそれに対する謝罪があった(黄色のマーカー部分)

普段威張って支配的な態度をとるのに、それが通用せず自分の立場が揺らぐと途端に
弱さを出し、泣き落としで周囲の同情を誘い、相手には罪悪感を与え、
自分が被害者に転じるというのは父の得意技

ラスト。ずれた返信。これ以降返していない

3. 父からの返信に見えた未熟さ

これまで、わたしの人生約三十年間、このように父に思いを明かしたことは一度もなく、はじめての試みだった。父からの返信は残念なことに、六十歳という年齢に見合わず、まるで中学生が書いたような文章だと感じた。こちらが送った内容をじゅうぶんに理解しているとも思えなかった。父のある種の未熟さには昔から悩まされてきたが、もう少し、まともな対応ができる人だと思っていたから、予想以上の親の稚拙さに愕然としてしまったようなところもあった。

父の返信に「〇〇(母)とは子どもの育て方で何度も喧嘩して、それを間近で見せられてかわいそうだった」という旨の一文があったが、わたしは「嘘だ」と思った。たしかに、わたしに関して揉めていたこともゼロではなかったけれど、ほとんどの喧嘩は、母の社会常識の欠如や、家事遂行能力の低さ、父から渡された生活費をきちんと管理できず、あればあるだけ遣ってしまうだけにとどまらず、利息制度をきちんと理解せずに「後で返せばいい」などと言ってカードローンでキャッシングをして借金まで作ってしまうという母の金銭管理能力の低さや見通しの甘さなどに、父が「何でお前はこうなんだ!」と腹を立てるのがはじまりだった。

4. 両親との関係

母をめちゃくちゃに怒鳴り、それに対して当時の母は、母の両親(祖父・祖母)が存命であったためか拠り所があり、父の言いなりになるというよりは、反発をして無視を決め込み、両親の険悪な状態が数日続くということが家での日常だった。わたしはその間、お互いの悪口を「あいつはな、どうしようもない女なんだよ」「ほんっと、自己中心的。末っ子長男で姉二人から甘やかされて育ったから」などと、双方から聞かされ、両親の喧嘩に巻き込まれていた。

その上、父自身が仕事や夫婦仲のストレスでイライラしているとき、わたしの態度や発言に気に入らない点があると、父はわたしを前触れもなく怒鳴りつけ、どんな内容から始まっても、いつも「誰の金で飯食ってると思ってんだ!」「食うな!」「(家から)出てけ!」という終着点に辿り着くのが常だった。

わたしは、子どもだからお金を稼ぎたくても稼ぐことができないのに、食べなかったら死ぬのに、他に行く場所なんてないのに、という思いでいっぱいで、だんだん生きていることが惨めに感じられてきて、小学生ながら自死の選択肢を考えるほど追いつめられていた。ちなみに母も父から「誰の金で飯を食ってると思ってんだ!」というセリフを度々言われていて、そんな母はわたしを庇うことはせず、わたしが父から罵られているとき、父の標的にならないように、いつも黙ってキッチンの隅でなにか作業をしているようなふうで、息を潜めていた。

また、母はわたしが小学校に入ると“普通の子”であることを強く求めた。病気を持って生まれて、それから年齢の割には成熟していたわたしを「お前は子どものくせに大人びていて可愛くない」などと言い、他の家の子どもとわたしを常に比較し、「お前も〇〇ちゃんみたいだったらよかったのに」と言い捨て、年に数回、なぜか優しかった日以外は、年中邪険にしていた。

父も母もむずかしい家庭環境の中、わたしは、父を刺激しないように、どうせ何をいっても「誰の金で飯を食ってると思ってんだ」と口を噤まされることがわかりきっているから、自分の思っていることなど言えなくなった。
そんな、子どもを脅し、追いつめ、抑圧したことについて、こちらのメッセージで言及しているのにも関わらず、返信では一切触れず、完全になかったことにしようとしていることにも愕然とした。

このような背景のなか、とある記憶が蘇ったのでこの文章を書きはじめた。それは伯母(父の姉)が関係する。

5. 伯母とのエピソード

父と伯母の関係性

伯母は父の務める会社の社長夫人である。伯母の夫が起業し社長をしていて、伯母が経理を仕切っている社員20名ほどの建設業の会社で、父は専務として働いている。

伯母夫妻は子どもを望み長年不妊治療もしていたようだが授からず、伯母は子なしのフルタイム勤務かつ社長夫人という点で使えるお金に余裕があったためか、わたしの小さい頃、よく服を買ってくれるなどやさしい伯母でもあった。

伯母の助けで大学へ進学できた背景

また、わたしが高校時代「大学に行きたい」と父に勇気を出して告げると、
「大学になんて行かせねーよ。行きたいなら自分で稼いだ金で行け!」
と、理由もろくに聞かず怒り、
「なんで?」と、おそるおそる聞くと、
「俺は、高卒でも大卒のやつなんかより仕事ができるんだ! だから大学に行く金なんて払わねーよ!!!」
などとおそらく父の学歴コンプレックスが刺激されたためか、顔を真っ赤にして目も充血させながらずれた回答をしてきて、話にならず困り果てていた。

そんなとき、伯母に、父から大学へ行かせないと言われて困っていることを伝えたところ、伯母から何かを言われたらしい父は考えをすぐに変え、急遽、わたしは大学に進学できることになった。そして父の預金口座まで管理している経理担当の伯母が、学費を間接的に手配したのに等しい経緯があって、感謝もしている。
(ちなみに、父の当時の年収は日本学生支援機構の有利子の奨学金の受給上限を超えている。いわゆる高収入であった。)

外面のいい父とそれを信じる伯母

しかし伯母は、父の外面、人から認められたい・称賛を浴びたいという欲求から来るのだろう、家庭外におけるいい父親アピールを信じて、弟(父)が一人娘であるわたしを溺愛していると思ってきたのだった。
「お父さんは〇〇(私)ちゃんをよく可愛がっているからね」
などと、わたしが幼い頃から会うたびに言い聞かせ、わたしが少しでもそれを否定するようなことを言うと、
「あら、やだ反抗期なの?」
なんて言ってみたり、
「今はわからないかもしれないけど、大人になったら親の有り難みがわかるわよ」
などと言って、まともに相手にしなかった。
そしてわたしが大学生になったある時、父不在の場で、
「お父さんは〇〇ちゃんをよく可愛がっているからね」
と、伯母が言い出し、それを肯定せずにやんわり否定したり話を変えようとしたりしても、しつこく何度も何度も同じセリフを言い聞かされるのに堪らなくなって、
「そんなことはないんだよ」と、今まで家庭内であったことの一部を訴えたのだった。
そこで、初めて伯母は、自分の思っていたことと現実がどうやら違うことに気づいたようだった。

伯母の愚痴聞き役としてのわたしと奇妙で一方的な電話

また、もう一つ付け加えたいのが、わたしはこのとき伯母に対して実情を述べた以外は、非常に気を遣って伯母に話を合わせ、聞き役に徹していたため、伯母はわたしを『話が合う。自分と似ている』と評していて、わたしが大学生になって一人暮らしをし始めてから社会人1年目くらいまでの頃、よく伯母の愚痴聞き相手として、電話がかかってきていた。
けれども、社会人2年目くらいになって、自分は金銭的自立を獲得して、父の支配から遠ざかることができたと思えたとき、年末年始、帰省した際に浴びた父の脅しに対して、自分の思いを言葉に出したことがあった。
「昔からそうやって脅すことしかできないのかよ。もうそのまま、自分が正しいと思ったまま死んでいけよ!」
この出来事のあと、父が伯母に泣きついたようだった。
伯母から電話で「あの子が『俺って、間違ってる?』と、言ってたよ」と聞かされた。
今思い返すと、その頃あたりから、伯母は徐々にわたしを気の毒に思うような態度というよりも、父の肩を持つようになっていった。
そんななか数年前に伯母から久しぶりに電話がかかってきたときに、伯母が
「子どもが小さいうちは、子どもの育て方でどこも喧嘩するものなのよ」
と、いきなり言い出し、身に覚えのない話を突然されて、この人は誰についてのなにを言っているのだろう? と気味悪く感じたことがあったのだった。

6. 父と伯母の共同記憶改ざん(疑惑)

なんか見覚えがあるぞ……? と、父のメッセージの一文(④のスクリーンショットの黄色いマーカー部分)に既視感があったのは、おそらくこれなのではないかと思った。
父の「〇〇(母)とは子供の育て方で何度も喧嘩して、それを間近で見せられてかわいそうだった」という『自分はあくまでも子どもを思うあまりに、子どもの教育に関する喧嘩を妻としてしまい、それを子どもに見せてしまった』という自己認識・過去の捉え方は、おそらく伯母と生み出したか、伯母からの入れ知恵なのではないだろうか? という考えがよぎったのだった。
なぜなら、あまりにも論が似すぎているし、父の幼稚なメッセージのなかでは、その一文だけが、比較的常識的な文章のように、借り物のように見えたからだ。
ちなみに、先述のとおり伯母は結婚しているが子どもがおらず、養子を迎えたというわけでもない。
だから、自身の経験から語る言葉ではなく、よくある親子関係について見聞きしたことが一人歩きしているような、言葉だけが浮いたような変な違和感が数年前の電話の時点ですでにあった。
伯母からすると、弟が、子どもを虐待していたということを信じたくない気持ちや、十歳も年下のかわいい弟を庇いたい気持ち、伯母自身の、自分は人を見る目があるという自己認識、自分たちはいい家族であるというイメージを守りたい気持ちから、現実を直視できず、都合のいいストーリーをでっち上げて、彼らの都合のいいように過去を改ざんしたんじゃないだろうか。


そうだ、思い出したけれどその電話の際に
「〇〇ちゃんは女の子だから。男の子だったらそんなことはなかったのに……。女の子は男の子と違って敏感だからいけないのよ」
だなんて、どこかで耳にした偏った育児論をそのまま流用しているような、性別に基づく固定観念も言い聞かされたのだった。
わたしの体験をまるで“女の子特有のもの”であるかのように矮小化し、だから弟は別に悪くなかったんだという、責任のすりかえを宣言されるような電話から、伯母とも距離を取るようにし始めたんだった……。

【まとめ】作り上げられたストーリー

つまり『弟(父)とその妻(母)は子どもを育てる上で、どこの家庭でもよくある子どもの教育方針の違いによる衝突を繰り返していたが、それを男の子とは違って女の子で敏感な〇〇ちゃん(私)は大袈裟に捉えた』というのが、伯母の作り出した、あるいは誰かからそっくり借りてきたストーリーで、それをおそらく、父も共有しているのではないだろうか。

7. かあちゃん、ねえちゃん、父ちゃん、、、わたし

これだけ聞くと、「そんなこと……普通ある?」と、この説に違和感を覚える人もおられるんじゃないかと思うが、父と伯母のどこか異様なむすびつきの強さが伺える、こんなエピソードがある。

伯母を職場で「かあちゃん」と呼ぶ父

父は会社で伯母のことを「かあちゃん」と呼んでいる。
以前母に連れられて、父と伯母の働く会社へ行った際、父は他の社員が複数いる場で伯母を「かあちゃん」と呼んでおり、わたしは異様さを感じたのだった。
社員同士の結びつきの強い、小さな会社では、社長を慕って社員全員が「おとうさん」「おかあさん」だなんて呼称するところが一定数あるようだけれど、どうもそういうケースではなく、父以外の社員は「〇〇さん」と、伯母の下の名前をさん付けで呼んでいる。
伯母の「子どもがいない私にとって社員が子どもみたいなもので、すごくかわいいのよ」という、よく公言している思いを受けての呼び名なのかもしれないが、父のみが「かあちゃん」という呼び方をしているのは、社内で浮いているように感じた。
若い社員も引いているような表情をしているのが印象的だった。
父は、親族しかいないところでは伯母を「ねえちゃん」と呼んでおり、「ねえちゃん」を人前で呼べるようにフォーマルにしたものが「かあちゃん」なのが、父の大人としての感覚のずれや、伯母と父の、普通のきょうだいとはおそらく少し異なる、特殊でいびつな関係性が垣間見えるように思う。

8. 書き遺すということ

いずれにせよ、父がわたしをかわいがるどころか、心理的虐待をしていた事実は、なかったことにされ、それどころか、わたしが悪かったことにされている可能性が高く、薄ら寒く、ぎょっとする出来事だった。

まだこの一連の出来事の衝撃は消化しきれていないのだけれど、せめてここに、自分のなかにあった真実を書き遺しておこうと思った。

わたしの病気について

ちなみに、ここで詳細を書くには長くなりすぎるので、端折って説明するが、わたしは生まれつきの良性腫瘍が主に首、あと頬の一部にあり、薄いあざと腫れがある。
母の化粧で隠すという行いに加えて、父が治療費のことを熱心に話していることから、重い病態を想像する方が多いのではないかと思うが、実のところ、ぱっと見では気づかれないような程度である。
友人関係や、それ以上に見た目の条件が重要になってくると言われている、恋愛関係を築くにも、病気を化粧で隠さずとも、実はほとんど問題を感じたことがないようなものである(ただその時の体調や、見る角度によってはちょっと目立つようなときもあるような感じ……)。だから化粧を塗って病気を隠すメリットよりも、幼いのに大きな秘密を抱えさせられたというデメリットの方が大きすぎたというのがわたしの認識である。


書いて人の目に晒すべきものなのか?

ここまで書いたことに対して、
「個人的な事情や家庭の恥部を晒すようなことをして」
なんていう、これまでの人生の複数のタイミングで、複数の誰かが、べつの誰かに言っていたようなことを、内面化した声がわたしの頭のなかによぎるけれど、それよりも、なによりも、今はなかったことにされてしまうのが怖い。

どこにもなかったことにならないように、この文章をここに遺します。


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