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6.大道廃れて仁義あり(だいどうすたれてじんぎあり)

正しいと言われている道はもろく崩れやすいがためにできた「正義」や「道徳」


「老子」は、仁義とか忠臣とか正義のような世間的な道徳は、それがもろく、失われた時に乱れた状態を知っているからこそ強調しているにすぎないと言っています。

例えば、(ちょっと違うかもですけど)交通ルールやきちんと整備された道路がないと、あっと言う間に車は凶器と化し、ケガや死亡事故が絶えない、保障問題で訴訟など、争いごとは増し秩序は乱れまくり、生命も危ぶまれることでしょう。だから先にルールを作っているのです。

しかし、老子が現代に生きていたら、更に「それ以上に車を沢山作ることが問題なのだよ」などと言っているかもしれません。

「そもそも環境を破壊して、生命の未来を奪うかのように沢山の工業製品を作って、君達は今さえ良ければ良いのか?」と。

私もその通りだと思います。しかし、田舎などは、車のおかげで人々の暮らしが円滑に進んでいることもあるのです。ですから100%何かが悪いとか決めつけることもできないのです。

また、老子にとって「儒教」の教えが表面的なきれいごとを言っているかのように思えたからかもしれません。

儒教の言う、一般の人にとって正しいもの、正しいこと、素晴らしいこと、美しいこと、力強いこと、それは表向きにすぎない。裏側をきちんと見ようよ、万物は表裏一体なんだよ。そしてそれが見えないと本質は見えないんだよ、と常に老子は言っているように思います。

※老子の思想がなぜこのように真実めいたものに対して反論しているかのような論調になり、また経済においては引退した人や、人格においては悟りの境地にまで達してしまいそうな思想であるか、それはこの思想のルーツや当時の社会情勢など、様々な角度から見ていかないといけないと思います。(私もこれから勉強していきます)

しかし、人間とは愚かで怠惰な生き物でして、きれいな部分だけ見ていたいし、汚い部分は認めたくない生き物なんですね。

そしてそれはどんなに頭の良い人が語ったとしても、自ら経験して痛い思いをしないと気づけない、これがまた人間なんですね。

だから時代は繰り返していますし、あんなに残酷な戦争も、生まれ変わった新しい人によって何度も何度も繰り返されてしまうんですね。しかも自分は正しいと思っている人ほどその傾向が強いような気がします。

そして老子の思想は、何かと一周回ってしまっているので、もし今自分が若かったら、「老子」の思想はピンと来ないだろうと思います。私も若い頃は自分を美しく見せたかったですし、強く見せたかったですし、正しく見せたくて必死だったと思います。というか、今も半分はそうです(笑)

しかし私も子育てが終わってセカンドライフに突入し、色々あったからこそこの「老子」を理解できるようになってきたのかな、と思います。

そして自分にないものばかり追いかけるのは、もうみっともない年齢になってるよ、と気づきをいただいています(笑)。

だからこそ、ただただ今この瞬間を楽しんで生きた方が良いんだと、そんな人生こそ老子の思想、「自然態」であり、「大道廃れて仁義あり」なんだと思います。

セカンドライフはこれまでの自分の経験がきっと仁義になってくれます。そしてもう既に自分の中に「経験」という財産はあるのです。

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