
日本の伝統的な美意識は自然をどう扱っているか
菊まつりに出されてる菊たちのことを何というのでしょう?「盆栽」みたく代名詞的に?
まあ、ともかく今年もなんとなく高幡不動菊まつりに行って
思ったのです。
見事でキレイなんだけどよく見ると
なんだか菊が可哀想でないかい?(北海道弁)。
だってさ、自然のままで菊は菊として咲かせてやればいいことなのに
それをわざわざ苦労することを競っているみたいな
成長抑制剤使ってまで自然の摂理を曲げてしまうことはどうしても
理解できなかったから。
似たようなものに盆栽、菊栽培、錦鯉、金魚などがある。自然の美を「こうしたい!」意図通りに手を入れて仕立て上げる日本の伝統文化。
私の認識だと、日本人は自然と調和しながら生きてきて
自然を尊ぶ気持ちが強いと思うのだけど、
なぜこのように自然をコントロールすることを良しとする文化が
生まれたのか、いつから、なぜこのような美意識ができたのか?

例えば、「福助」という菊の仕立て方。
背丈を30〜50cm程度の高さに抑えつつ、
花の直径は15〜25cm!
ずんぐりしているのが良しとされてて
そのために成長抑制剤を使うんだって。

他に「3本仕立て」もまた凄い!
丈が1mくらいのてっぺんに大輪の花が3つキレイに
咲き誇っている。
こんなに揃って花を咲かせるのはさぞ大変だったろうな、と
視線を下に移してみたらなんと1本の茎から
3本の茎が分かれ、それがキレイな位置になるように
ワイヤーで固定されている。
その後茎がスクスク伸びて大輪の菊が同時に咲くように
なんやかやとやるのはさぞかし大変なことだろう。
不思議に感じてチャッピー(chatGTP)に私の疑問をぶつけてみた。
私は自然は自然のままに野放図でいいと思うのですが、昔は野放図な自然がそこいらに当たり前にあったからあえて人為的な行為で自然を支配していることを誇示したのでしょうか?
するとチャッピーはこう答えてきた。
現代の感覚では、自然はそのままで美しいと感じる方も多いですよね。おっしゃる通り、自然をそのまま楽しむことに対する価値観は、現在では特に広まっています。一方、昔の日本では、自然そのままが当たり前に存在していた背景が、むしろ人為的な介入を通じて自然を特別な形に表現する文化を育んだのかもしれません。
自然の「支配」ではなく「共存」としてのアプローチ
確かに、現代から見ると、盆栽や庭園などは自然を「支配」しようとしているかのように見えるかもしれません。しかし、伝統的な日本文化においては、単に自然を制御するのではなく、自然と人間の共存や調和を示す試みとして人為的な技術が使われてきました。自然を人間が完全にコントロールするのではなく、自然の持つ美しさや特質を引き出し、それを小さな空間に凝縮することで、自然の美しさを再発見し、内面的な深みを感じようとしたのです。
自然の「野放図さ」と美の意識
昔の人々は、野放図な自然を日常で享受していた一方で、それに対する畏敬や理解も深かったため、自然をただそのままにしておくのではなく、より深い意味や哲学を込めて表現することに価値を見いだしたのでしょう。たとえば、四季折々の変化や自然の儚さを愛でる感性があり、それを人間が手を加えることで昇華させ、自然の「美」を「理想」に近づけることを目的としたと考えられます。
まとめ
現代の私たちにとっては、「自然は自然のままで美しい」という考え方が主流で、むしろ過剰な介入を避ける傾向があります。一方で、昔の人々は、豊かな自然の中に暮らしていたからこそ、その自然を特別な形で再構築することで、新たな美や意味を創り出そうとしたのです。それは単なる支配というより、自然との対話を求めた結果だったと考えると、少し違った見方ができるかもしれません。
なるほど、「支配ではなく自然との対話を求めた結果」と捉えるのか。
私は自然の伸びやかさを許さず支配する行為、と捉え『菊が可哀想』って思ってしまって善悪ジャッジしていたよ。それは、ほんとなら自然のままに伸び伸び振る舞いたかったのにそうすると鉄拳が飛んできた個人的な幼少期のトラウマの記憶を無意識的に思い出したのかもしれない。
物事の捉え方とそれにまつわる感情や感覚は自分の過去やらいろんなことが影響して想起される主観なんだよね。チャッピーとの対話でそこに気づけた。
チャッピー、ありがとう。
さて、あなたなら菊まつり、
どう感じる?
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