狂白文
ミステリアスで高尚な存在で居たければ露出を減らすのが一番の近道ではないか。
特に表現に携わっている者ならば作品以外に於いて、人目に触れたり、所謂"素の状態"を露出する機会を限定すればする程、神格化されやすいように思う。
しかし、文明の進歩と共に未開の地が無くなるように、ネットワークという、3.5次元の質量を持たない世界が広まるにつれて、人間の内面も容易に詳らかになってしまうようになった。
手の届かないモノへの憧れから、自分の近くの存在に対する親近感が人気の指標へと移り変わっていった。
ラジオで自分のハガキを読まれたり、コンサートで目が合うだけでドキドキするような存在から、会えるどころか握手が出来ることすら不思議ではない存在となった。
しかし、ここで面白いなと思うのは、そういった直接的な繋がりや、オープンな状態が歓迎されるのは、詳らかになったはずの人間的内面が実像では無いからではないだろうか。
文献、伝聞、経験、etc..、アナログと呼ばれる世代は五感を駆使し、時間をかけて実像を情報化していった。
対して、ネットワークが発達した今、ゲートウェイとして先に情報がある。
しかもすでに選別され、ジャンルや趣味趣向毎に簡単に見つけ出しやすい状態にすらなっている。
情報(予備知識)を先に得てから行動へと移行する。
果ては実際に体感せずとも経験として認識してしまう。
全てがそうとは言わないが、因果が逆転してしまっている場面がままあるのである。
形あるものの中で創意工夫を繰り返し、徐々に文明を形成していった我々の祖は、自分たちの力が及ばぬ形なきものこそ、尊び、時には畏敬の念をもった。
形あるものがデータベース化され、殆どの物事が情報として明るみになった今、科学的にツッコミどころがある目に見えないものより、頻繁にUPされる推しのご尊顔の方が尊くなった。
大げさに、しかも恭しく書いてしまったが、
ようは、漠然とした絶対的存在より、近所の自慢できるお姉さんお兄さんを慕う方が、圧倒的に"実感"があるという事である。
そして何より情報が発信される速度が速まった今、
露出を減らし、作品以外に於いて、人目に触れたり、所謂"素の状態"を露出する機会を限定すればする程、
余程、群を抜いて、強烈な人間でない限り忘れられてしまう。
と、ここまでお読み頂いた方々には本当に申し訳ない。
これ、別に何が良いとか悪いとか全然ないんです。
更には、それがどうとかこうとかも。
もう、全っ然っっっっ。
本当に....
本当に何も。無いんです。
それぞれ好きにすればいいし。
別に俺もSNS好きな時と嫌いな時あるし、露出の仕方も好きにすれば良いと思うし...
無なんですよ。完全に無。
無から生まれた無の文なんです。
何かお皿用意せずに、カレーをテーブルに直に盛っちゃったみたいな。
しかもスパイスカレー。南インドとかスリランカ系の混ぜて食べる感じのあれ。
もう、なんでしょうね現代ね。
現代。うん。なんかもう怖いですよね。ビリーアイリッシュとフワちゃんのキャットファイトっていうか。本番直前の長渕のリハっていうか。
あっ。
なんかお寿司食べたくなってきたな。
じゃあ今日はここらへんで。
追伸:神道のみならず広く大衆に至るまで、古くから日本人に根付いてきた八百万神(やおろずのかみ)。
この思考自体、実は多様化が進む現在(いま)に非常にフィットした感覚では無いかと。
万物に神が宿るように、人々の中にはそれぞれの神が存在し、それぞれが尊び、愛する。
他ジャンルも新参も古参も降りた人も、それぞれがそれぞれの神を讃え、リスペクトし合う。そんな寛大さが試される時代ではないだろうか。