見出し画像

アートに憧れながら、それでも「デザイン」という仕事を志した理由:MEMENT 代表 上田孝明インタビュー[前編]

明けましておめでとうございます。MEMENTの広報担当です。すっかりご挨拶が遅くなってしまいましたが、今年もどうぞよろしくお願いいたします。本年もnoteを通じて、私たちの日々の取り組みを発信していければと思っています。

今回は、MEMENTについてより深く知っていただくべく、代表である上田孝明へのインタビューを行いました。聞き手を務めてくれたのは、ライターの福地敦さん。長時間に及ぶ取材となったため、前後編の2回にわたってお届けします。

前編では上田のバックグラウンドを深掘りしながら、アートとデザインの狭間で揺れた学生時代を経て、デザイナーとして仕事をはじめるまでの足取りを辿っていきます。

最初のきっかけは、NIKEのスニーカー

――本日はよろしくお願いします。たしか最後にお会いしたのは去年の10月頃で、そのときはかなりお忙しそうにされていたと思うのですが、どのような活動に取り組まれていたんですか?

去年はありがたいことに、松本市や甲府市、朝霞市、千葉市など、全国各地で滞留空間創出の社会実験に携わる機会をいただきました。特に夏から秋にかけては仕事が立て込んでいて、なおかつその合間を縫うように、松本市のプロジェクトの仲間たちと北アルプスを縦走したりもしていたので、ちょっとバタバタしていたのだと思います。

――今日こうやってお話を伺うにあたって改めて思ったのですが、上田さんのポジションって、業界でもちょっと特殊じゃないですか。パブリックデザインやまちづくりの文脈でコンセプトの策定に携わることもあれば、実際に手を動かしてストリートファニチャーをデザインすることもある。こういう仕事をしてみたいと、昔から考えていたんですか?

考えてもみなかったですね。多分、デザインというものをはじめて意識したのは、中学生の頃だったと思うんです。部活でバスケをやっていたのですが、当時はちょうどNIKEのスニーカーが大ブームで。それに影響されて、自分でもノートの切れ端にオリジナルのスニーカーの絵を描いたりしていました。「同級生の◎◎くんモデル」とか、勝手に名前をつけたりして。それが原体験というか、デザイン、特にインダストリアルデザインに興味を持つようになったきっかけだと思います。将来は美大に進学しようと決めたのも、その頃ですね。

中学生の頃に上田が使っていた実際のノートより

――たしか、大学は東京藝大でしたよね。ストレートで入学されたんですか?

いやいや、合格まで2浪しています。でも今から振り返ると、その2年間はすごく大切な時間でした。僕は関西出身なので、浪人1年目は普通に地元の予備校に通っていたのですが、そこで恩師と呼べるような先生に出会って。僕のセンスの、基礎の基礎をつくってくれた人ですね。その先生が東京に転勤されるというので、僕もその後を追いかけるように上京し、2年目は東京の予備校に通っていたくらいです。

――その先生のどこにそこまで惹かれたのか、気になります。

一番大きかったのは「デザインをやりたいなら、絵画や彫刻、写真、建築といったあらゆる美術表現を、包括的に理解していなければダメだ」と学んだことでした。カッコいいもの、美しいものをたくさん見て、その本質をつかまえられるようにならない限り、デザインという行為は成り立たないんだ、と。そう教えられて、自分は美術のことを何も知らないのだと、はじめて気がついたんです。それでどうしようかと思って、最初にやったのが大阪にある洋書が充実した大型書店で、画集や写真集などを片っ端からめくってみることでした。朝から晩まで、丸一日かけて。

――え、すべての書籍に目を通したんですか?

ええ、もう本当に端から端まで。もちろん、すべてを詳しく読んだわけありませんが、一冊ずつ書籍を手に取って、気になった作家の名前をメモしていきました。でも、それだけではさすがに本屋さんに申し訳ないと思って、一冊だけ購入したのがゲハルト・リヒターの水彩画集。人生ではじめて買った洋書ですね。8,000円くらいしたのかな。浪人生にとっては大きな出費だったし、当時はリヒターの名前すら知りませんでしたが、自分なりに惹かれるところがあって。実は今でもこういう本の買い方をすることは、よくあります。知らない作家に出会ったら、まずは他人の評価よりも自分の直感を大切にするようにしています。

太陽のもとにオリジナルはない。その言葉が転機に

――MEMENTが事業の軸のひとつとして「アート」を掲げている理由が、少しずつわかってきたような気がします。東京藝大に入学してからのお話も聞かせてください。

入学当初は「自分の表現で、世の中を驚かせてやる」と息巻いていました(笑)。デザイン科に在籍しているのに、自分が目指すべきなのは、デザイナーではなくアーティストなのではないか、と悩んだ時期もありましたね。子供っぽい考え方ですが、与えられた課題に応えるデザイナーよりも、自分自身の表現を追求するアーティストに憧れていたというか。まあ端的に言えば、念願の大学に入学できて天狗になっていたんだと思います。

――若い頃って、みんな多かれ少なかれそういうところがありますよね。

ただ、大学3年生にもなると、少しずつ考え方が変わってきて。家具やインテリア、建築に本格的に興味を持つようになったのも、この頃です。当時はいわゆる北欧のインテリアや家具が日本で人気絶頂だった時期で、青山などに生活全般を扱う、今で言うライフスタイルショップのようなインテリアのお店がブームとなった時期でもありました。

そこに置かれている家具、たとえばフィンランドの建築家であるアルヴァ・アールトがデザインしたスツールなどは、インテリアでありながら彫刻的な美しさも宿っているように感じられたんです。そして何より、それらは単に作り手の表現手段であるだけではなくて、使い手の生活と調和したものでもある。そこにすごく惹かれて、徐々に「生活のデザイン」みたいなことを意識するようになっていきました。

――多くの人に使われるものをつくりたい、と思うようになったということでしょうか?

誰かに使って欲しいと言う気持ちはありましたが、「多くの人に」というところまでは考えられていなかったかもしれません。やっぱりまだまだ我が強かったというか、自分が美しいと思うものをつくりたいという想いが強かったと思います。

一方で、アーティストを志向していた時期の反動なのか、作り手の作家性が見えるデザインに徐々に反発心を覚えるようにもなっていて。アフォーダンス理論や人間工学を学んだりしたこととも関係しているのかもしれません。とにかく、芸術やデザインを通した自己表現よりも、もっと純粋に人間の所作を支えるものの「かたち」を追求したくなったというか。ある種の研究者のような姿勢で制作に取り組んでいたのだと思います。実際に学生時代のポートフォリオを振り返ってみても、この頃の作品はそんなものばかりです。

東京藝大での卒業制作より

――作家性よりも、ある種の匿名性に惹かれるようになったというか。

そうですね。それでいうと、今でもすごく印象に残っている授業があって。GK Designって、ご存じですか?

――すみません、名前を聞いたことがあるくらいです。

日本における工業デザインの草分け的な会社です。よく知られているのは、キッコーマンのしょうゆ卓上びんや郵便ポストのデザインですね。そのGK Designの社員さんが非常勤講師として特別講義をして下さったことがあって。そこで仰っていたのが「太陽のもとにオリジナルはない」という言葉です。

――どういう意味なんですか?

講義のときに具体例として挙げられていたのは、コダックの映写機でした。そしてこのデザインのルーツを辿っていくと、それは水車に行き着くんだと講師の方は言うんです。そして水車もそのルーツをひたすら遡っていけば、最終的には惑星の軌跡に行き着くんだ、と。確かそんな話で。

――なんというか、スケールの大きい話ですね。

つまりデザインと言うのは、ルーツを辿れば必ずその原型があるんだ、という考え方ですね。そのことを身近なもの、しかも機能的にも優れていて、世の中のスタンダードになっている製品を例にしながら、客観的に示してくれたんです。「アートか、デザインか」みたいなことで揺れ動いていた僕には、それがすごく面白くて。「こういう考え方ができる人が働いているのは、どんな会社なんだろう」と思い、思い切って講師の方に話しかけてみたらちょうどアルバイトを募集していたんです。

――まさに渡りに舟ですね。

すぐに学生バイトとして働きはじめ、結局そのまま正社員の採用試験を受けることにして。大学卒業と同時に、GK Design Groupのなかでも、主に都市や建築のデザインを担うGK設計という設計事務所で働くことになりました。

はじめての大仕事が終わったとき、不思議と実感が湧かなかった

――いよいよデザイナーとして道を歩みはじめたわけですね。仕事はどうでしたか?

うーん、当初は結構苦しかったですね。というのも、僕が所属していたのは土木を含めた都市空間のデザインを専門とする部署だったんですよ。学生時代にストリートファニチャーを制作した経験があったので、その経験を見込んでの配属だったと思うのですが、実際にはなかなかそういうスキルを生かせる案件は少なくて。最初の数年は主にサイン計画、つまり公共施設の案内看板などをデザインすることがほとんどでした。

――大学で学んでいたこととは、少なからぬ距離がありますよね。

そうなんです。特にサイン計画というのは、国や自治体が定めた様々な法や条例に則ったものでなくてはなりません。けれど僕は建築学部を出たわけではないので、そのあたりの知識がまったくなくて。最初は関連する法令などを覚えるだけで必死でした。そういう勉強が苦手だから、わざわざ美大に入ったのに(笑)。デザイナーの直感としてはここでこう線を引きたいのに、それが許されないということも度々あって、そこもフラストレーションでした。

――その当時はどんな案件を担当されていたんですか?

ちょうど北京オリンピックや上海万博が控えている時期だったので、半分以上は中国の案件でした。空港のサイン計画など、今考えれば大きな仕事も任せてもらっていたのですが、通訳を通しながらの仕事だったこともあってか、なかなか「自分の仕事」という実感が持てなくて。

――国内の案件では、どんなものを扱っていたんですか?

さまざまな案件に携わっていましたが、特に印象に残っているのは、入社数年目から延べ10年ほど取り組ませてもらった、富山市の次世代型路面電車システム(LRT)に関するプロジェクトです。アサインされた当初は、本当に下っ端という感じだったのですが、最終的にはトータルデザインの主担当を任せてもらえるようになりました。すごく手応えもあったし、デザイナーとしても大きく成長させてもらえた仕事ですね。

――トータルデザイン、というと?

停留場のベンチや街路照明、サインといったインダストリアルデザイン、グラフィックデザインから、路線周辺の街路樹といったランドスケープデザインまで、列車本体を除くその路線の景観に関わる要素を、トータルでデザインしていきました。関係者も大勢いましたし、単純にデザインしなければならないものの物量もすさまじかったので、当時はそれこそ睡眠時間も削って仕事にのめり込んでいました。

――そういう大仕事が終わったときって、どういう気持ちになるんですか?

竣工式を迎えられたときは感無量でしたね。でも、そういうときって、別に涙が出たりするわけじゃないんですよ。自分の達成したことが、自分でもすぐには理解できないというか。関係者のみなさんと打ち上げをしているときも、なかなか実感が湧かなかったことを覚えています。

上田がGK設計で携わった、富山市のLRTトータルデザインプロジェクトより一部を抜粋

――本気で取り組んだ仕事だったからこそ、ですよね。

あとはやっぱり、まだ自信もなかったんだと思います。これはデザイナーの性だと思うのですが、完成したものを見てから、あれこれ悩んでしまうんですよ。ここはもっとこうすれば良かったのかも、とか。けれど1年ほど前に、同じ業界のある方から「あの停留場のベンチって、上田さんのデザインなんですか?」と聞かれたことがあって。そうですよ、と答えると「デザインを参考にさせていただいたことがあります!」と仰ってくれたんです。本当に苦労してデザインしたベンチだったので、あの言葉は嬉しかったですね。10年越しに答え合わせができたような気持ちでした。

(後編に続く)


いいなと思ったら応援しよう!