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のたうつもの

 すっかりなりを潜めたと思っていた湿疹がやにわに再発したので皮膚科へ行った。前回とは別の病院だったのもあり、今度は軟膏を6つももらった。製薬会社から酵素をたくさんもらった菱沼さんの気分だ。

 起床した時点で、「あ、今日はだめだな」と思った。朝の日差しとかゆみで目を覚まして、自分の体内に鬱ぎが充満しているのを感じた。私の皮膚の下で、腹の底から脳までを我が物顔でのさばって、この世でただひとつ死ぬことだけが私を救いあげる安寧であるかのように誤認させる。誤認というのはそれが私にとっての“唯一のすべである”というところにかかっていて、私は自死を積極的な推進もしないが否定もしない。選択肢は多角的で数があるほうがいい。

 昼にやっとの思いで帰ってきて、汗をふき、処方された軟膏を塗って横たわる。どういう機序でどういう意味合いのもと行われているのか知らないが、私は私を努めて無に近づける作業をする。自我や肉体を知覚する五感、それらを体内から取りいだして、抜け殻を残すだけのnullを目指そうとする。単に時が過ぎ去るのを待つだけの逃避かもしれないし、あるいは、擬似的な死を捧げることで、鬱ぎという寄生体のいっときの腹を満たしてやろうという儀式であるのかもしれない。ぼんやりと狗子仏性の話を思い出す。公案の理解にはとても至れないが、あの「無」、それが恋しいと思う。

 病院からの帰り道、またミミズを見かけていた。ミミズが横たわるコンクリートは恐らくミミズ自身から漏れだしただろう体液で湿っていて、進むでもなく、止まるでもなく、頭と尾の両の先端だけが奇妙に分離した動きで蠕動していた。それをしばらく眺めたのち、熱されたレンガの上は苦しかろうと、木陰になっている土のもとに移動させてやった。通りがかったご婦人が、「どうしたの?」と私に声をかける。ミミズがいたので……と答えると、「優しいのねえ」と婦人は言った。「暑くなると出てきちゃうのよね」どこかひとりごとのようにそう続けて、会釈をしてすれ違った。私はミミズの生態をまるで知らないことを自覚した。はたして土とコンクリートの、どちらがミミズにとって幸せであったのかわからない。もしもあの場に優しさが存在していたのならば、それは私をそう形容した婦人の言葉だけだと思った。

 

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