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音楽が好きと言えない理由

「音楽好き?」何の深い意味もなく投げかけられるこの質問は、いつの頃からか私を困らせるものになった。

音楽は好きではない。けれど音楽抜きで私の人生の殆どが語れない。

今日の話は凄く長くなるとだけ前置きをしてこの話を始めよう。

名前の由来

私の名前は美音(みお)。

美しい音のように人を和ませる人になってほしいという意味で名付けられた。

両親が3つの候補からどれにするか悩んでいた際に、祖父も提案として全く同じ美音を考えてきてくれたらしい。一切相談せずに同じ漢字と読みだったというから驚きだ。

もし名前が莉音(りお)か那音(なお)だったら今頃みおりんじゃなく【りおりん】【なおりん】とかだったのか。みおりんが1番響き良い気がするから美音で良かったな。

ちなみにこの名前、音大に入学してからは音大生でこの名前って凄いねみたいに言われたりもする。これに関しては自分の意見は投影されていないから反応に困る。

(本名りるむーん入る前にAMADOLの記事で使ってたり隠してないので普通に書きました。ご心配なさらず。)


習い事

YAMAHAの幼児教室には2歳から通っていた。ほぼ覚えていないが気づいたら毎週YAMAHAに行っていた。

2歳の頃はリトミックのような親子で遊びに近い形のグループレッスンを受けていた。

3歳から幼稚園を卒園するまではエレクトーンのグループレッスン。グループレッスンは年齢(学年)で1つのクラス。最初10人ぐらい居たのに最後は4人だったことだけは鮮明に覚えている。

グループレッスンが終わる頃先生に小学校に上がる際にピアノとエレクトーンを両方弾く上手い子しか入れないクラスを勧められたが断った。今思うと勿体ないことをした。

家には母のグランドピアノがあったので、幼稚園ぐらいまでグランドピアノはどこの家にも当たり前にあるものだと思っていたのは大人になってみるて中々ユニークな笑い話である。


小1から小5まではピアノの個人レッスン。

最初の発表会で弾いた曲ギロックの『カーニバルの舞踏会』今思えば結構難しい。(youtubeなどで検索して聴いてみてほしい)小1でこの曲が弾けるならそこまで下手では無かったのかもしれない。

小3の時初めてのコンクールに出た。本番だけ妙に調子が良くて地区予選は金賞。県大会に出場できた。県大会は勿論何も無しの選外。

元々ピアノは学校の勉強と同じでやらなければならないもの。義務感しかなかった。

だから学校の勉強がお利口さんだった小学生の頃、母との喧嘩の原因はかなりピアノが多かった。

ピアノが楽しいと思ったことはあまり無かった。だから辞めたいとずっと言っていた。

母には勿論反対されたがレッスン中に泣いたり私の態度が悪化したため、小学5年生で遂にピアノを辞めた。あの時点で音楽とはほぼ無縁な人生を送ると思っていたし、親も自分もそう思っていた。

伴奏というきっかけ

ピアノを辞めた小5の終わり卒業式の伴奏者決めがあった。在校生(5年生)から6年生に送る合唱。

立候補というより先生がピアノ習ってる子たちに楽譜渡して弾けそうならチャレンジしてみてねーと。私も渡されたからなんとなく練習してオーディションに参加した。

結果的に3人の中から伴奏者に選んで貰った。

その翌年も卒業生の『旅立ちの日に』の伴奏をした。これはオーディションではなく最初から私にはこの曲、残りもう1曲は残り2人でオーディションしていた。


音楽漬けの3年間

中学に入学すると人生で最も音楽漬けの日々を送ることになる。

吹奏楽部に入部しSAXを担当した。

最後の大会でソロを担当したり、市の連合音楽会での発表でもソロを講評で褒められたり何かと評価を貰えて嬉しかった。

そして合唱コンクールでは1年生から3年生までクラスの課題曲と自由曲、学年合唱の伴奏を全て担った。だから私は合唱コンクールで歌ったことがない。

この辺りからピアノの個人レッスンも再開。

2年生の終わり頃になると卒業まで全校合唱の校歌や大地讃頌の伴奏も弾くようになった。

3年生の時は同級生と有志の部員から成る特設合唱部を作り音楽の先生に頼んでNHK全校音楽コンクールに出場した。特設合唱部では課題曲、自由曲の伴奏をし部長も務めた。

中学3年生の文化祭は凄い。

合唱コンクール、クラスの課題曲と自由曲。

学年合唱。

全校合唱2曲。

特設合唱部の課題曲と自由曲。

これら全ての伴奏を弾いた。つまり1日に6曲7回の伴奏。

ちなみに吹奏楽部の発表も10曲ぐらい(3年生はソロ有り)あったためよくあんなに演奏できたなあとびっくり。

中学は自分の卒業式も大地讃頌、校歌、卒業生の合唱と最後まで伴奏漬けだった。

ちなみにこの頃AKB48にハマるのだがメンバーに当時現役音大生の松井咲子さんがいた。咲子さんはアイドルと音大生という私にとって憧れの二足草鞋を履いておりとても憧れの推しだった。

咲子さんの存在が、私に音大というものを漠然と憧れの進路として与えてくれた。

多分咲子さんがいなければ音大に憧れをそこまで抱いていないだろう。推しは後に人生の進路に大きな影響を与えていた。


帰省した際に中学の卒業アルバムを開いた。皆がピアノの事をアルバムの最後のメッセージに書いてくれていた。

その中にこんなメッセージがあった

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私は中学時代男子と話すことも少なく、クラスでいわゆる合唱の時以外は目立つ存在でなかった。

しかし比較的雰囲気が良いクラスに居たため、そんな私でも居心地は悪い方ではなかった。

これは名前は無いが、通りすがりのクラスの男子がささっとノリで書いたメッセージなことは覚えている。つまり、そこまで親しいわけでなくとも音大という言葉がスッと出るぐらい中学の私にはピアノ(伴奏)のイメージが強かったらしい。

母も同級生の親同士の会話で美音ちゃんは音大とか行くの?と色々な人に言われて、その度に絶対に無いと否定していたんだとか。

私も絶対に無理だと思う反面、どこか音大生に憧れていたのだろう。

中学で書いた15歳の時に書いた20歳の自分への手紙(先生が保管して成人式の時に実家に郵送してくれれる)にもこんな事が書かれていた。

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高校生

高校生でも合唱コンクールが有り3年間伴奏をした。課題曲はアカペラのため自由曲を3年間。

つまり私は人生の合唱コンクールで伴奏できる全ての曲を伴奏したらしい。

高校生の頃は合唱コンクールと発表会くらいしか人前で演奏経験がない。

高1の発表会で咲子さんがAKBのコンサートで弾いていたショパンの革命のエチュードを弾いた。推しと似た赤いドレスを着て推しと同じ曲を弾く。今思えばアイドルコピーダンスと似たようなヲタ活の方法。

そういえば高校2年生の頃音楽の授業で作曲をした。県の作曲コンクールに出すために全員提出させられたのだ。音楽経験が浅い子達は先生が手伝いながら単旋律の数小節のものを苦労して書いていた。

私はピアノを使ってそれらしいピアノ曲を書いた。ちなみにこの時点で楽典の知識も無ければソルフェージュなどいわゆる作曲に必要な知識は無い。ピアノが少し弾けるだけ、メロディは無限に頭に浮かんで作れるからそれを楽譜にメモしつつ自分が好きなような音を重ねる作業をした。

その曲は結果何故か佳作で、下の方ではあるが県のコンクールで賞に引っ掛かっていた。

小学校のコンクールといい音楽ができない人の割にはたまに予想外の結果を出している。

高校2年生でエレクトーンに興味を持ちそれは後に私の人生に大きな影響を与えた。

高校2年生の冬、母の反対を振り切り先生にエレクトーンを教えて貰い始めた。エレクトーン独自の足鍵盤に早くても3ヶ月、大体平均半年かかるからそれは覚悟してねと言われた。

エレクトーンがどうしても欲しくて、頼み込んで小さい頃から貯めたお年玉で自分もお金を出す条件で小型のエレクトーンを買って貰い冬休みは朝から晩までエレクトーンを弾いた。

その結果1ヶ月で足鍵盤はマスターしエレクトーンを弾けるようになった。

この頃の私は本当はエレクトーンプレイヤーになりたいけど、今からは無理だからエレクトーンの先生になりたいなあと密かに夢を抱いていた。

暇さえあればyoutubeでエレクトーンの曲を調べウォークマンでもお気に入りの曲を聴いていた。アイドルコピーダンスに夢中なのと同じくらいの熱量でエレクトーンに入れ込んでいた。


受験科目としての音楽

高校3年生、受験の国公立推薦対策で声楽と聴音を習い始める。色々進路を決めかねていた自分が悪いのだが本当に歌は嫌だった。

ピアノに声楽に聴音、面接対策。この推薦は何故行きたくもない進路のために高いお金と時間を割いて嫌な思いをしながらレッスンをしなければならないのかとメンタルは死んでいた。

推薦は3倍で当たり前に落ちた。正直受ける前から結果は見えていた。

一般入試でセンター全科目、ピアノと声楽と聴音。これだけでも大変なのにそれまで考えてなかった私立音大の入試を試み始めた。我ながら馬鹿である。

独学で楽典(音楽の理論)は3ヶ月で詰め込み、電子オルガン科を受験し合格した。エレクトーンを始めて、約1年で器楽科に合格できたのは嬉しかったがこれで大丈夫なのか?と疑問を抱いた。

実質受験対策1年未満で曲がりなりにも音大の器楽科に受かってることを考えれば悪くはないのだが…。

私は電子オルガン科以外にも複数私立音大の科を受験し全て合格を貰っていたのだが迷った末に全て辞退し浪人を選んだ。

私は音大なら好きなエレクトーン奏者の方が卒業したあの音大(後に学部を卒業する音大)が良いというのが漠然とあった。本当は現役の時もその音大を受験したかったのだが試験内容が難しく断念していた。昔から名も通っている有名な音大で憧れだった。

多分それもあって浪人した気がする。

浪人中は全ての受験パターンに対応できるようにセンター全科目(理科や数ⅡBまでやった)、先生を変えピアノのレッスンと聴音、声楽のレッスン、趣味としてエレクトーンのレッスンを全て行っていた。

音大生

浪人し、第1志望ではなかったものの結果的に音大の中で1番行きたかった音楽大学に進学し憧れの音大生になった。

大学入学当時はアートマネジメントに興味が有り、裏方的な仕事をやってみたかった。

学科は研究系の学科のため実技は少なかったが、さまざまな音楽について本を読んだりプレゼン、文章を書くなど凄く楽しかった。自分に合っていて学部時代の勉強は凄く楽しかった。私は大好きなアイドルについて研究したが社会学に近い内容も許される自由な学科で伸び伸び勉強させて貰った。

そのうちに論文を書くことや研究に興味を持ち、アートマネジメントよりジャーナリズム系に興味は移る。

副科選択科目のレッスンではエレクトーンを選び、運良くこの大学に憧れるきっかけとなったエレクトーンプレイヤーの方を在学中に指導していた先生のレッスンを受けることができた。副科ならこのくらい弾けたら良いと言われた時は嬉しくて私のエレクトーンへの情熱は綺麗に落ち着いた。

4年間800万という高い学費を親に払わせた価値がある有意義な学部生時代だった。


何故音楽を続けてきたのか

結果的に大正解だったものの、そもそも何故私は大学進学の時そこまで好きではない音楽を選んだのかという話を綴りこの話を纏めたい。

私が振り返ってみて純粋に楽しかったと言える音楽は中学時代の吹奏楽と伴奏、高校から始めたエレクトーンだけである。

音楽は義務で有り楽しみではなかった。

今大人になってみるとこのくらいお金がかかることを自由に沢山やらせてもらったので恵まれているし親の恩恵なのだがそこに気づくまでかなり時間を要した。

高校生の私が進路に音楽を選んだのには多分2つの理由があった。

1つは折角ここまで続けてきたし勿体ないという感情。当時、側からみれば低レベルでも私の唯一の特技はピアノやエレクトーンだった。どこかで音大や音楽系学科の大学に進学しなければ後悔するような気がしていたのかもしれないし自分の特技を活かしたい、これなら少しはできるみたいな藁にもすがる思いもあった気がする。あとは前述したAKB48の松井咲子さんに憧れ音大生に妙に憧れていたのも強かった。

2つ目は偏差値からの逃げ。説明すると音大は受験の際に(藝大など国公立は別として)いわゆるセンター試験のような勉強はそこまで重要ではない。私は学歴主義思考の家庭で育った反面頭が悪く勉強ができないという自負がある。つまり普通の国語や英語を頑張り偏差値を上げるより、それらで測れない芸術系を進路に選ぶのは都合の良い逃げ道であった。普通に勉強しても国公立は厳しいし、それならば憧れもある音大へという安易な発想。

基本的に音大は無理だと自分も周りも思っていたし、何年も費やす受験対策のレッスンなど様々な常識を吹っ飛ばしてあまり良くないパターンで音大生になった。(夢幻クライマックスの♪シナリオ通りのカルマ飛び越えてきた人生〜みたい)

私は音大生の中で実技系の学科でないにしても音楽はできない方だと学部を卒業した今でも思っている。素人にしては少しは音楽経験があるくらいのレベルかなあなんて思っている。

ちなみにもう一回進路が選べるなら音大生を選ばない気がするが、人生をやり直せるならしっかり音楽を学んでピアノなりエレクトーンなり器楽科の音大生をやりたい。

音大生になってみると皆なんだかんだ音楽が好きなんだなあと少し驚いたが、やはり好きなことが何よりその道を進む上で糧になる。

学部を卒業しては1年半ほど経つが未だに私はピアノとか音楽が好きではない。だけど何気なく聴くJ-POPやディズニーの音楽は好きだ。アイドルも音楽であるわけで(これは学部時代の研究テーマにも関連する)結局音楽には携わって、たまに好きで25年生きている。

よく来世は楽譜も読めずピアノも弾けない人になりたいなんて言っていたがいつのまにか思わなくなった。

「音楽は好きかと」聞かれたら好きとは答えないが、昔のように寧ろ嫌いとは答えない。

これが答えである。

長文になり結局自分の音楽経験を羅列した駄文になってしまったが良いだろう。

私の音楽との関わり方が良い悪いではなく、1つの例としてこんな形もあるのだなくらいに受け止めて頂きたい。

この記事を書くのに2時間近くの時間を要した。最後にその間聴いていたBGMを紹介し終わりとしよう。


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