寂しさについての考え方
知り合いに、先日東京へ一人旅をしにいったことを話した。その流れで、自分は一人旅が好きでよくやっていると伝えたら「一人旅って楽しい?」と訊かれた。
知り合い曰く「一人旅って無感情にならない?ほんとに無、っていうか、ワイワイ楽しいみたいなのがないと思うんだよね」と。
確かにそうである。当然ながら一人旅では、周囲と一緒に盛り上がってキャーキャーワイワイすることはできない。一人だから。
ただ、無感情かと言われるとそうではない。
自分の心のうちでしみじみと味わえる感情があると思う。
だから私はまた旅をするのだ。
先に述べた会話で、私は自分の趣味嗜好・感性を否定されたような気持ちにはなったものの「一人旅を楽しく思わない人もいるんだ」という一見判りきったことを改めて深く認識したのである。
知り合いはなぜ一人旅を楽しくなさそうと思ったか
知り合いについて少し補足しよう。以降Aとする。
Aは、一人でいることに不安を覚える人間だ。移動時や作業中一人になる事を嫌い、いつも誰かと一緒に行動する傾向がある。
またコミュニケーションが好きなのか、職場では向かいの席の同期と業務中にも会話することがあるようだ。聞く限りその内容のほとんどは、私にとっては取るに足らない、情報的価値の少ない会話=正真正銘の雑談である。しかし以前雑談をしているときのAを見たらとても楽しそうだった。Aは職場の同期同士での飲み会も楽しいらしい。
このような性格・価値観を持つAにとって、一人旅は地獄でしょう、と率直に思う。
感情を他の人と共有できないし、基本一人で行動しなければならない。問題が起きた時も一人で解決しないといけない(厳密にいうと一人旅でも人を頼ることはできる。でも人を頼ろうと自分から動き出さねばならない)。
これらの情報を加味すると、Aの「一人旅って楽しいの?」という発言には納得がいく。
私はなぜ楽しいと思うのか
逆に私は一人でいるほうが気楽な性格で、他人がいると自分のペースにその人を巻き込んで疲れさせてないかな、と気になってしまうほうである。
さして仲良くもない人(職場の人間など)と食事・飲み会するのは楽しくないから「先輩から為になる話が聴ける」といった価値を感じられる理由がない限りは行きたくない。
業務中に雑談はしていいけれど、気が散って仕事をどこまでやっていたか忘れてしまうから困る。それに、気軽な雑談とはいえ私にとっては「いかに適切な返しをし、相手をいい気分にさせるか」という超高難易度ゲームなので、コミュニケーションは脳みそも精神も使う。
こんなことにワーキングメモリを割くくらいなら、黙って仕事をしていたほうがよほど安心できるわけだ。
そんな私にとって一人旅はうってつけの楽しみだと思う。周りに気を遣う人がいないし、自分のペースでずっと行動し続けられるからだ。
旅のどういうところを楽しいと思うのか
ここまでの話をまとめると、Aと私で旅の楽しみ方、目的に決定的な違いがあることが判る。それはこうである:
Aは、旅を通して同行者と交流をはかり、感情や体験を共有して感情的に盛り上がることを目的としている。
私は、見たかったランドマークを見ること、体験したかった活動を実際にやること、会いたい人に会って話すことを目的としている。
何をもって寂しい人とみなすのか
さて、旅の文脈から離れて、Aのような人間と私のような人間、すなわち一人を嫌がる人/一人でも全く問題ない人の本質を考えてみる。
Aはなぜ一人でいることを不安に思うのか。
私は友人にAのこと、そして今回の一人旅に関する一連の会話を話した。
そして二人で会話を重ねていった結果見えてきたのは、
一人を嫌がる人間は、一人でいる人間のことを寂しい人だとみなしがち
という仮説だ。
自分が寂しい人だと思われたくないから、一人でいることを嫌うのではないか、ということだ。
(もちろん他にもたくさんの理由は考えられよう)
残酷な話だが、一人を嫌がる人間が寂しさを感じないため周りに据える人々とは、まるで「駒」であると私は思う。
あなただから一緒にいるというよりは、誰でもいいから誰かと一緒に行動することが価値であり、その価値を得るためならあなたでなくてもいい、が本質なのではと、私は斜に構えた考え方をしてしまう。
ほんとうに寂しいのはどっちだ?
厳しいことを言って本当に申し訳ないと思うけれど、このような人間の本質的問題について考察を深めるのは非常に価値あることなので、続けます。今回の記事は、あくまで人間についての抽象的な話だということを忘れないで下さい。
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一人を嫌がる人間は時として、周囲に迎合しがちだと私は思う。
常に誰かといるために、いろんな人にいい顔する、阿るということだ。
このような人たちにとっての「自分」とは、いったい何であろうか?
例えばいろんな人にいい顔したいがために、ある一つのテーマについて、こっちには「賛成」あっちには「反対」と述べていては、自分の考えが確立されない。
つまり迎合する人というのは相手の考えを正確に映し返す鏡のような存在であり、一貫したその人らしさや個性、特徴、すなわち「自分」は発信されない。だから、その人自身を見つめた先にあるのは虚構だと私は思う。
ひとりになることを恐れ、避けるために「自分」を無くしていく。そうして熟成された自己の虚構性によってますます「ひとりではいられない自分」になっていくのではないか。
一見、常にいろんな人に囲まれている方が寂しくなさそうに見えるが、実際はどうなのか?自分を囲んでいる人たちとは上辺だけではなく本当に心が通い合っていて、お互いを尊重しあえる関係なのだろうか?
もしそうでないのなら、その人間関係に価値はあるのか?本当に寂しい状況なのはどっちだろうか?
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かなり突っ込んだ内容になったが、勿論いろんな考え方があって当然。
私は無理な迎合は必要ない派だし、迎合することが環境上どうしても必要な人はそれをしていいと思う。一人でいることのデメリットだってあるし、私とて、時に迎合せざるを得ない場面もあった。コミュニティに所属する人間として生きる以上、ひとりで居続けるのはそれなりに難しいことだと思う。
自分なりの楽しみ方を各々が貫こう
いずれにしろ、一人旅には一人旅の良さが、みんなと行く旅にもその独自の良さがある。各々の楽しみ方に敬意を払える人間でありたいなと思う。
どんな形であれ、旅は楽しい。
それでは。
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