なぜ海外のファミコンは日本とデザインが異なる?(ローカライゼーション戦略)
この間、駅構内にあるレゴストアで任天堂とレゴのコラボ商品を目にしました(以下参照)。四角い灰色のゲーム機とブラウン管テレビがレゴで作れるセット商品で、あまり見かけないゲーム機だなと思ったので、それについて書いてみようと思います。
結論から言うとこの灰色のゲーム機はNintendo Entertainment Systemと呼ばれていたゲーム機で日本のファミコンに当たるものでした。遊べるゲームなどは一緒のものの、日本と海外ではファミコンのデザインや名前が異なるのです。
ファミコンは日本で1983年に発売され、テレビに繋ぐカセット式のゲーム機で当時の他のゲーム機よりグラフィックが良かったのみならず、画面でのキャラクターの動きがゲームセンターのゲームでの体験に非常に近かったこともあり、大ヒットとなりました。
当時、アメリカではアタリ社のATARI-2600のゲームソフト陳腐化が家庭用ゲーム機市場の大崩壊(いわゆる1983年のアタリショック)を招いた直後でアメリカでの家庭用ゲーム機市場はほとんど誰も参入していない状況でした。
任天堂は日本でのファミコンの大ヒットを目にし、誰もいなくなっていたアメリカの家庭用ゲーム機市場への参入を決意します。
任天堂にとって、アタリショック直後の家庭用ゲーム機へ否定的観点を持っていたアメリカ市場へどのように参入するかが最重要課題でありました。
日本市場でのファミコンはオフホワイトにワインレッドを基調にしたデザインを持っていました。
そのデザインはアメリカ人にとって電気製品にも子供向けへのゲーム機にも見えない色使いで任天堂アメリカの社員はアメリカ市場に持ち込むためには大幅なリブランディングが必要だと判断しました。
このことを日本の任天堂に進言したところ、日本のデザインチームは四角いピンクの箱のようなデザインし直したファミコンを任天堂アメリカに提案します。
しかし、任天堂アメリカの社員は「ランチボックス(弁当箱)」のようだと馬鹿にし、さらにデザインし直すことを求めました。
そこで任天堂アメリカの産業デザインチームと日本の任天堂のデザイナーが協力し、できあがったのが灰色をベースカラーとしたNintendo Entertainment Systemです。クールでかっこいいデロリアン(映画 Back to the Futureに登場する車)のようなデザインを追求した結果できあがったものらしいです。
1985年にニューヨークで試験販売が行われたNintendo Entertainment Systemはたちまちアメリカで人気となり、後に全米で大ヒットとなります。アメリカでは子供たちが家庭用ゲーム機総称を「ニンテンドー」と言っていたくらいです。
このように、任天堂のローカライゼーション戦略、つまり参入する市場に合わせた戦略でアメリカ市場やその他の海外市場で大きな成功を治めることになりました。
任天堂の賢いところは同じデザインのファミコンを海外市場に持ち込んだ方が簡単であるのに、日本本社を頂点にしたトップダウンの判断ではなく、現地法人の意見を聞きながら市場に合わせて製品を投入したことにあると言えます。
このことを考えると一番最初に紹介したレゴのNintendo Entertainment Systemのコラボ商品も日本ではファミコンのデザインで販売した方がかつてのファミコンファンの購買意欲を掻き立てるのになあと思っちゃいます。
でもこのレゴの商品は任天堂アメリカとのコラボなので、日本のファミコンデザインの場合は日本の任天堂との新たなコラボが必要になるのかな。
ビジネスは複雑なことが多いものの、「急がば回れ」と言われるように、めんどくさいことを丁寧に対応することが成功の秘訣かもしれないですね、Nintendo Entertainment Systemのように。
現在はデジタル版のNintendo Entertainment Systemとファミコンが任天堂から発売されてます。HDMI出力対応みたいですよ。
そういえば、Nintendo Entertainment Systemはファミコンのようにソフトを差すのではなく、前面のカバーを開けてスライドして挿入するデザインみたいなので、ソフトがうまく読み取れない時の「ふーふー」って息をソフトにかける作業いらないのかな?
できれば毎日カルピスソーダ飲みたいです。お願いします。