ソンジュの片隅で
⭐️⭐️🍔
15年5月21日
私は屋上の扉を開け、その子の隣に座った。また立ち上がってどこかへ行ってしまうかと思ったが、彼女は何も言わずにギターを引き続けた。学校にギターを持ってくるのはその子だけだった。先生に指名されて何も答えないのも、クラスの中で日本人でないのも、その子だけだった。初めてその子が学校にやってきた時、誰もがその子と話したがった。だけど皆が期待したのは、にこにこと笑うおしゃべりで明るい転校生であって、韓国訛りのおかしな日本語や、周りへのそっけない態度ではなかった。すぐに誰もその子に近づかなくなった。
ギターの音が止んだ。慌てて顔を上げると、彼女がじっと私を見ていた。「どうして?」彼女が尋ねた。不思議な癖のあるアクセントが耳に心地よかった。「どうしていつもここに来る?」私は恥ずかしくなって下を向いた。校庭からボールを蹴る音と笑い声が聞こえた。どうして。私は自分に問いかけた。ただ隣に座ってギターを聴いていたかった。もっとその子のことを知りたかった。本当のその子の姿が見えるのは、ギターを弾いている時のような気がした。
私は答える代わりに聞いた。「一番好きな歌は何?」その子はしばらく私を見つめていた。そして、今度は別の曲を弾き始めた。知っている曲だった。「歌ってみて」言われるままに、私は息を吸いこんだ。胸がいっぱいになった。ボールの音と笑い声が遠ざかっていった。
「声、いいね」私がその友達の笑顔を見たのは、この時が初めてだった。
22年3月2日
「いらっしゃいませ!」いつものようにこぼれるような笑顔で声をかけてくれたのは、店員のお兄さんだった。私は、はにかみながら彼に向かって軽く頭を下げた。
ここ、ツースターバーガーはソンジュ市の中央に位置していた。大きな高等学校の真向かいにあるので、そこの学生たちが学校帰りに立ち寄り、座席を陣取っているのは、この時間帯のいつもの光景だった。
私が仁川空港に降り立った日から、すでに半年あまりが過ぎた。大学の課題を詰め込んだ重いカバンを抱え、ぎこちない韓国語でハンバーガーを注文していた留学生が、ここでアルバイトを始めることになるとは誰が想像しただろう。
私がカウンターに近づくと、店員のお兄さんが笑いながら言った。「間違えた。今日からはお客さんじゃないのに」私はもう一度、頭を下げた。「これからよろしくお願いします」
去年の夏、空港から電車を乗り継ぎ、なんとかソンジュ駅までたどり着いた時にはすでに日が暮れた後だった。私は重いトランクを引きずるようにして、闇に包まれたソンジュの街を歩いた。ソンジュ中央センターの右隣、8階建てのアパートが私の新しい家だった。古びたアパートを見上げた。部屋までは階段で上がるしかなさそうだった。額から汗が流れ落ちた。お腹も空いていたし、疲れていた。体のあちこちが痛かった。
左隣の建物から光と音楽が漏れてくるのに気づいたのは、辺りを見回した時だった。こんな時間にいったい誰が何をしているのだろう。窓を覗くと、一人の青年の姿が見えた。向こうの壁一面が鏡になっている、この古びた部屋はダンスの練習室のようだった。その鏡に向かって一心不乱に踊る青年。身軽に舞うその姿がまるで蝶のようで、不思議とずっと目を離すことができなかった青年。
「仲間が増えて嬉しいよ」その青年がお兄さんだった。
22年4月7日
私は大通りに向かって足早に歩いた。ソンジュ市の家賃は大抵が低かった。大学から少し遠いのにもかかわらずソンジュ市内で家を借りることに決めたのは、決して気まぐれではなく、金銭的な問題のためだった。ソンジュは豊かな都市ではなかった。一歩裏通りに入れば、点滅する街灯が薄汚い路面を照らし、道端にうずくまってじっと動かない老人や、酒に酔ってふらつく若者に出くわした。
この時もそうだった。大学とアルバイトでこれほど忙しくなければ、私も真夜中にスーパーに立ち寄ったりすることはなかっただろう。向こうの角から青年が姿を現した時、私は思わず眉をひそめた。中学生や高校生が一人でふらふらと出歩くような時間ではなかった。裏通りは真っ暗で、フードを目深に被った青年の顔はよく見えなかった。
10日ほど前、近所のガソリンスタンドの前を通りかかった時のことが思い浮かんだ。私が驚いて振り返ったのは、男の怒鳴り声が聞こえたからだった。一人の青年が、男に殴られて地面に倒れ、スプレー缶がコロコロと転がった。男が地面に唾を吐きながら立ち去った後も、青年はしばらく体を縮めて横たわっていた。
それを思い出したのは、いまこちらに向かってゆっくりと歩いてくる彼が、ガソリンスタンドの青年と似ていたからだった。顔も見えないのになぜそう思ったのかは分からなかった。実際、同じなのは年齢くらいだろう。いや、年齢すらも違うかもしれなかった。それなのになぜか2人の青年の姿が重なって離れなかった。
かすかに聞こえてくるピアノの音に気がついたのは、青年が突然立ち止まった後だった。それまで俯いていた青年がぱっと顔を上げた。その瞬間だった。青年の顔が見えた。泣き出しそうな、それでいて笑い出しそうな、切実な何かを思い出したかのようだった。青年が走り出した。
22年4月11日
事務室の鏡の前で髪をほどきながら息をついた。心地よい疲れが全身に広がっていた。ちょうど、この新しいアルバイトに慣れてきた頃だった。この1ヶ月の間、特に大きな失敗もなかったことが嬉しかった。ツースターバーガーの制服をかばんの中に突っ込んだ時、小さな紙が手に触れた。
「皆、今日もお疲れさま」明るい声が聞こえ、私は振り返った。「あれマネージャー、今日はダンスの練習があるって言ってませんでしたか?」誰かが聞いた。「忘れ物でも取りに来たんですか?」突然ツースターバーガーにやってきたお兄さんは、いつもより余計に元気がある様子だった。お兄さんは首を横に振った。「久しぶりに高校の仲間に会うんだ」
お兄さんと言っても私より一つ年下だった。だけど私は心の中でその人をお兄さんと呼んでいた。客として初めてここを訪れた時からアルバイトを始めるまでの半年あまり、ずっとそう呼んでいたから、今さら変えるのもおかしな気がした。それにお兄さんは実際、私よりずっと大人びていた。よく気が利いたし、リーダーシップもあった。いつも人の後ろでうろうろしているマヌケな私とはずいぶん違った。お兄さんは高校生の時からここで働いていたみたいだった。ツースターバーガーのことはなんでも知っていたし、いつも朗らかで誰にでも優しかったから、アルバイト生は皆、彼のことを慕っていた。
「ハンバーガーいくつ残ってるかな?」お兄さんは、仲間への差し入れだと言いながら、売れ残ったハンバーガーを3つ掴んだ。そして少し考えた後、さらに2つ、かばんに入れた。それから私たちアルバイト生にチョコバー(※1)を一本ずつくれると、残業代だといたずらっぽく笑った。
私は店を出ると、お兄さんが走っていった方を眺めた。4月の上旬で、夜はまだ肌寒かった。お兄さんはソンジュ駅の方に向かったようだった。私はその反対側、家へ続く道を歩き出した。
あいつらもようやくこの僕と会う気になったみたいだ。そう言いながら、お兄さんは嬉しそうだった。私は、彼が仲間と再会する瞬間を思い描いた。お兄さんはどんな表情で懐かしい友達と向き合うのだろう。私は、かばんから小さく折りたたんだ紙を取り出して広げてみた。今日、あの子の連絡先が分かったのは意外なきっかけだった。大学構内の伝言板に貼られていたチラシも、この見覚えのあるギターの写真が載っていなければ気に留めることもなかったはずだった。〈キョンイル病院 無料コンサート開催のお知らせ〉チラシにはあの子の名前と連絡先があった。
『久しぶり。元気?』散々迷ったあと、私は短いメッセージを送った。チラシを丁寧に折りたたむと、コートのポケットにそっと手を入れた。再びあの子の前に立った私は一体どんな顔をするだろう。ポケットの中、チョコバーのわずかな重みが嬉しかった。
※1 スニッカーズ
22年5月3日
授業開始を知らせるチャイムが鳴った。水曜日の朝、経営統計学の授業(※2)だった。広い大教室には、1年生から3年生までが着席していたが、皆一様に疲れた顔をしていた。「明後日くらい大学も休みにしてほしいよな。俺たちだってまだ子どもなんだから」誰かの言葉に、教室の後ろからどっと笑い声が上がった。「ほんと、大学生なんてやってられないよ」
5日はこどもの日だった。お兄さんが養護施設の子どもたちに会いに行く日。「3人ひと組でグループを作りなさい」懸命に声を張り上げる教師もまた、疲れた顔をしていた。
一つ年下のはずのマネージャーのお兄さんは実際、私よりずっと大人らしかった。私は大学1年生のお兄さんを想像した。毎日大学に通い、授業を受けて、課題を提出するお兄さん。こどもの日くらい休みにしてほしいよ。僕たちもまだ子どもなんだから。お兄さんがもし大学に通っていたら、そんな冗談を友達と交わすだろうか。いったい何が、お兄さんをあれほど大人にさせたんだろう。
お兄さんが施設の出身だということはツースターバーガーの従業員の誰もが知っていた。お兄さんは特に隠そうとしなかったし、私たちはそれ以上深く聞こうとはしなかった。ただ、彼が自分の家と自分の家族をとても大切にしていることは自然と伝わってきた。私を見て、お兄さんはどう思うんだろう。そんなことをふと考えた。当たり前に大学に通う同年代を見て、お兄さんが思うこと。
「先輩」声をかけてきたのは、分厚い眼鏡をかけた真面目そうな学生だった。「早くしないと余っちゃいますよ」彼女は独特のしぐさで眼鏡を押し上げながら言った。私はお兄さんに同情しているのだろうか。お兄さんのことを理解したふりをして、心の奥底ではただ可哀想な人だと考えているのだろうか。
「これでやっと揃いましたね」最終的に、彼女が教室の端から引っ張ってきたのは、一人の背の高い男子学生だった。勉強熱心な1年の後輩、マヌケな2年の留学生、そして気弱そうな同学年の青年。この大教室の中でひとりぼっちだった3人の集まり。それが私たちのグループだった。私の隣に座りながら眼鏡の子が聞いた。「留学生なんですね。学生寮に住んでるんですか?」私は首を横に振り、ソンジュ駅の近くだと答えた。その時、青年がこちらを見たような気がした。眼鏡の子が身を乗り出し、わけもなくしかめっ面をして言った。「ソンジュ駅と言えば、昨日火事がありませんでしたか?先輩の家は大丈夫でした?」そうやって眼鏡を押さえながら難しい顔をして話すことが、この子の癖のようだった。私はまた、首を横に振った。「そうですか。確かに火事と言っても小規模で、大した騒ぎにはならなかったらしいですけど。でも病院に搬送されたのは20歳ちょっとの若者だって。私たちと同じくらいの男の子ですよ」
少し重い沈黙が流れた。するとそれまで黙っていた彼が初めて口を開いた。「大丈夫。誰も死んでないよ」
※2 毎週水曜日8時50分から、未来永神ホール203号室にて
22年5月10日
店長から電話がかかってきたのは、先週、授業で知り合った後輩と2人で大学の食堂にいた時だった。誰かと一緒に昼食を食べたのは、留学してから初めてだった。マネージャーが突然休むことになったから代わりに夕方から来てほしい。店長からの頼みはこうだった。午後の授業の後、急いで向かえば間に合いそうだった。
通話を終えると、後輩が聞いた。「先輩、何かありましたか?」「何でもないよ。夕方、代わりにアルバイトに行くことになっただけ」マネージャー。お兄さんのことだった。お兄さんは約束をきちんと守る人だった。直前になって変更したり、大事なことを忘れたりする姿は見たことがなかった。その時、後輩が何か尋ねた。「ごめん、何て言ったの?」韓国語に慣れてきたとはいえ、まだ時々このようなことがあった。バイト先でも、お客さんの言葉が分からなくて呆れられることがあった。彼女は眼鏡を押し上げながら、ゆっくりと言い直した。「留学生でアルバイトするなんてすごいですねって」「ごめん」どうして謝るのかというように、眼鏡の奥の瞳が私を捉えた。「先輩、言葉が分からない時、いつもそうやって謝るんですか。そんな必要ないのに」
大学からそのままツースターバーガーへ向かった。電車の中で見たアルバイトのチャットグループは、いつになく賑わっていた。お兄さんを心配する言葉の数々。怪我はどれほどひどいのか。入院はどのくらい長いのか。『心配しないで。大したことないですから』そんなメッセージから、困ったように笑うお兄さんの顔が想像できた。そのうち誰かが、見舞いに行こうと言い出した。あっという間に、それに賛同した人たちのグループが出来上がった。私はただ、彼らの言葉を追いかけているのがやっとだった。結局、お兄さんに一つの言葉もかけられなかった。
22年5月21日
午前0時0分。「お誕生日おめでとう」私は願いごとをしてから、一本しかないろうそくをそっと吹き消した。しばらくの間、そのまま暗い部屋にじっと座っていた。10代が終わるからといって、想像していたような感動も寂しさもなかった。ケーキを持ってアパートに帰ってきた数時間前の自分と、今こうしてろうそくを吹き消した自分とは、少しも変わったところがないように思えた。
スーパーで買った安っぽいケーキを手にアパートの前で立ち止まった時、左隣の建物には、やはりダンスの練習をしている一人の姿があった。いつもと違ったのは、練習室の灯りがついていないことだった。
私は、ダンスをしているお兄さんの姿が好きだった。蝶のように身軽に踊るお兄さんは、ツースターバーガーで働いている時とはどこか違うように思えた。その姿を見ていると、お兄さんが大切にしているものが何か分かるような気がした。自分を、現実の全てから自由にするためのもの。自分の心を、他人から守るためのもの。あの子にギターがあったのと同じように、お兄さんにはダンスがあった。あの子も、心を守るためにギターを弾いていたはずだった。そして、その時間は壊れた。私のせいだった。
この時、蝶のように飛びあがる代わりに、お兄さんは床に倒れ込んだ。日が暮れてもなお、車や人々が忙しなく行き交うソンジュの街の中で、目の前の練習室だけが音を無くしてしまったように思えた。お兄さんは床に転がったまま、ずっと起き上がらなかった。見てはいけない気がして、私は急いでアパートの階段を駆け上がった。
炎が消えたろうそくの先から、白い煙が細く立ち昇っていた。7年前の今日、あの子と私は屋上に並んで座っていた。「願いごとしてみてよ」屋上の隅で拾った誰かのテストの裏に、あの子が描いてくれたケーキには、やはりろうそくが一本だけ立っていた。
部屋の電気をつけようと立ち上がった時だった。携帯が震え、青白く光った。『お誕生日おめでとう。久しぶり』あの子からのメッセージだった。
22年6月13日
思えば、勤務時間が重なったのは久しぶりだった。私の挨拶に振り返ったお兄さんは、すぐに思い出したように「あの時はありがとうございました」と頭を下げた。1か月も前に、入院したお兄さんの代わりに働いた時のことだった。「それよりマネージャー、もう怪我は大丈夫なんですか?」私が尋ねると、お兄さんは照れくさそうに笑顔を浮かべながら頷いた。「もう転ばないように気をつけないと」ふと、一人で練習室にいたお兄さんの姿が思い浮かんだ。床に倒れ込んだまま、じっと息をひそめていた姿。本当にもう大丈夫なのだろうか。
あの子と会ったのは、誕生日の4日後だった。久しぶり、と言葉を交わしながら私たちは恥ずかしそうに笑い合った。公園のベンチに並んで座った。どうして連絡先が分かったのかと尋ねる彼女に、私はコンサートのポスターを出してみせた。ポスターの中央の写真を指差そうとしたが、私は俯いてしまった。縦に大きな亀裂の跡が残るそのギターは、小学生の時から彼女が持っていたものだった。
小学生の頃の日々が蘇りそうになり、私は目をぎゅっとつぶった。破かれたノート、落書きだらけの机、水浸しの上靴。そんなふうになるのは私のものだけで良かった。彼女が私を庇う必要はなかった。『ごめん、あの時』それ以上は続けられなかった。思い出したくなかった。ギターは彼女の言葉だった。彼女が、自分を伝えることのできる唯一の言葉だった。私を助けようとしなければ、彼女のギターが真っ二つに割られることはなかったはずだった。
彼女は、それきり黙り込んだ私をじっと見ていたが、おもむろに口を開いた。『私たちが一緒にいたの、あれくらい小さな時だったよね』彼女の指差す先には、駆け回って遊ぶ子供たちが見えた。誰かが笑い、転がり、また立ち上がった。『あの頃、楽しかった』その言葉に思わず顔を上げると、彼女は微笑んでいた。『覚えてる?私のギターに合わせて歌ったこと。私たち、一緒にいる時ずっと笑ってたじゃない』私は目を瞬いた。あの頃と同じ音色が聞こえてきた気がした。遠くで遊ぶ子供たちの姿が、初夏の日差しのもとに小さく光っていた。
天気予報が外れて突然降り出した夕立は、重たい湿気と肩を濡らした人々とを一度に連れてきた。「すみません。ちょっとの間、レジをお願いできますか」お兄さんに言われ、私は頷いた。お兄さんは申し訳なさそうに頭を下げると店先に向かっていった。誰か、知り合いを見つけたのかもしれなかった。
『その共同制作者って人、元から友達だったの?』あの時、私の質問に彼女はおかしそうに笑った。『まさか。でも、私から声をかけたの』彼女の新しい共同制作者は同い年の作曲家らしかった。彼の作った曲を偶然耳にして、衝動的に連絡をとったのだと彼女は話した。彼は、自分には作れない曲を作るのだと。『あの人がどんな人生を生きてきたのか、すごく気になってる。だけど作業が全然進まなくて困ってるんだよね。彼、のんびりしている上にこだわりが強いから』そうこぼしながらも彼女は嬉しそうだった。彼から取り上げたというライターを自慢げに見せてくれたりもした。
青年が一人訪ねてきたのは、雨がやんですぐだった。彼は店の出口でもじもじと立っていたが「兄さんいますか?」と聞いた。ダンスグループの後輩かもしれなかった。
その青年と一緒に、急ぐように帰っていくマネージャーのお兄さんの後ろ姿を眺めた。次にお兄さんと会えるのは明後日。その日はアルバイトの後、病院で開かれる彼女のコンサートに行くつもりだった。
22年6月15日
懐かしさで胸がいっぱいになった。彼女が前に話していた共同制作者の曲は、それ自体に聞き馴染みがあったわけではなかった。それでも、ギターを弾く彼女の姿はあの頃と何も変わらないように思えた。授業中、こっそり顔を見合わせて笑ったこと。破かれた私のノートをテープで繋ぎ留めてくれたこと。彼女の教科書にふりがなを書いてあげたこと。音楽とともに数々の思い出が頭の中を駆け巡った。歌を歌いながら一緒に歩いた夕暮れの帰り道。不思議な記号に見えた彼女の国の文字。学校の屋上から眺めた遠く霞む海。こうして7年の時を経て、めぐり逢った私たち2人。
絶え間ない音の波の向こうに、ある青年の姿が浮かびあがった。見たこともない同い年の作曲家は、縮こまった背中でピアノを弾き続けていた。にらみつけるような鋭さ、痛みに似た苦しみの中に、誰よりも傷つきやすい部分が見え隠れした。私は客席を見回した。ほとんどがこの病院の患者のようだった。手を繋いで座っている中学生くらいの少女たちや、入院中の恋人に会いに来た男の人。ガートル台を引きずって歩く女の子と松葉杖をついた青年。もしかしたら皆同じなのかもしれない。ふとそう思った。後悔で塗りつぶされた過去と、足がすくむほど不安定な未来の間で、誰もが必死に今を生きているのかもしれなかった。だから彼の音楽に、彼女の歌に、こんなにも泣きたくなるのかもしれなかった。
時間はあっという間に過ぎていった。マイクスタンドを片付ける彼女を手伝いながら、私は一生懸命言葉を探した。この感情を全て伝えるには、たとえ母国語でも足りない気がした。「来てくれてありがとう。私の共同制作者にも会ってもらいたかったんだけど」彼女は最後にため息をついて言った。「彼、電話に出なくて」私は驚いて彼女を見つめた。『兄さんが電話に出なくて』怒ったように話すお兄さんの姿とそっくりだった。このところツースターバーガーを訪れるようになったダンスグループの後輩らしき青年が、お兄さんの言葉に答えた。『忙しいのかもしれませんね』
「忙しいのかもしれないね」彼女にそう答えながら気づいた。お兄さんは怒っていたのではなかった。悲しんでいたのだ。
作業室にいるはずだから様子を見にいくつもりだと彼女は言った。私は、ギターを背負った彼女の後ろ姿を見送った。夢を追いかけるその背中を、ただ眺めているだけではいけないと思った。大学の試験が近づいていた。今日から1週間、アルバイトは休みを取った。勉強に専念しなくてはならなかった。
22年7月4日
暗い空が青白く光り、少し遅れて低い雷の音が聞こえてきた。顧客対応マニュアルを見ていたが、念のためパソコンの電源を落とした。そうしてしまうと、他にすることがなかった。マネージャーのお兄さんが作ったそのマニュアルがチャットルームにあがったのは、ある小さな事件が起きた翌朝だった。
2週間ほど前、大学の試験が終わって久しぶりにアルバイト先に顔を出していた。6月にしては肌寒く、真夜中のツースターバーガーには2、3組の客が残っているだけだった。思えば、その日の出来事も嵐のように突然だった。酔った男が不明瞭な言葉を叫びながら腕を振り回し、客の一人が背中を丸めてうずくまった。男が、客のおじいさんに向かってもう一度腕を振り上げたとき、気がつけば私は走り出していた。なぜそんなことをしたのか、自分でも分からなかった。ただ、夢中で男の前に立ちはだかった。頭から首にかけて衝撃が走ったと思ったら次の瞬間には顔が熱くなった。酒の臭いが漂った。あらゆる音が遠ざかった。斜めに傾いていく視界の隅に、駆け寄ってくるお兄さんの顔が見えた。
怪我とも言えない怪我だった。痛みより嬉しさが勝っていた。後悔で塗りつぶされた過去と不安定な未来の間でも、私は少しずつ変わっていた。ツースターバーガーの事務室で、額に保冷剤を当てながらマヌケに笑っている私を、アルバイトの仲間たちは安心したように、半ば呆れたように眺めた。客のおじいさんは、ありがとう、申し訳ないと言いながら私の目を見つめた。握り返した手は、少し乾燥していて温かかった。おじいさんにはちょうど私くらいの年齢の孫がいて、今日も病院へ、その子に会いに行ってきたらしかった。キョンイル病院なら、その子もコンサートを聴いたかもしれない。「お孫さん、早く元気になるといいですね」おじいさんはゆっくりと頷いた。
ひときわ明るく空が光るとすぐに、湿った空気を震わせるような鋭い音が鳴り響いた。私はふと窓の外を見た。雷の音の中に、誰かの叫ぶ声が聞こえたような気がした。真っ暗な道が雨に濡れて時折光った。彼女とは、コンサートの日以降連絡がついていなかった。試験期間中、何度もメールを送ろうとしてやめた。彼女も音楽に打ち込んでいるはずだと言い聞かせていたが、なぜか心は落ち着かなかった。遠くに雲の切れ間が見えた。嵐はいつか必ず終わる。今はただ、信じて待ちたかった。
22年7月20日
ツースターバーガーのアルバイトを夜間に回し、図書館に通い始めて2週間が過ぎた。今更、こうして図書館に籠っている自分がおかしかった。大学の試験は終わり、とっくに夏休みに入っていた。帰国まであと1か月という事実が突然、目の前に突き付けられていた。この場所で学んだことは、1年間の留学生活に値するものだろうか。このまま日本に帰って、本当に大丈夫だろうか。焦りがないわけではなかった。私は参考書をめくった。ため息が出そうだった。
一瞬、その長いため息が自分のものかと思って私は顔を上げた。私の代わりにため息をついたのは向かいのテーブルに座っている青年だった。短い髪を片手でかき上げながら、もう片方の手で忙しなくページをめくっている彼を、私はこっそり眺めた。青年は毎日、図書館に通っているようだった。そして見るたびに違う本を読んでいた。彼はどうしてここへ来るのだろう。どうして本を読むのだろう。どうして、いつもため息をつくのだろう。
数日前のことだった。アルバイトを終えたあと、私はコンビニエンスストア(※3)に向かった。ツースターバーガーを出ると、蒸し暑い夜の風が体にまとわりついた。二手に分かれる広い通りを右側に進んだ。すれ違ったのは見ず知らずの女の子だった。少し迷ったが、私は結局、立ち止まって声をかけてしまった。「大丈夫?」大きな声で泣きじゃくるひとりぼっちの少女を放っておけなかった。「どうしたの?」「お兄さんが」
コンビニエンスストアの外で待っていた少女に、私は冷たいジュースを差し出して言った。「泣いたら喉乾くよね」少女はもじもじと俯いた。その薄汚れたスニーカーが、店の明かりを受けてためらうように後ずさった。私が隣にしゃがみ込んだ時、少女が呟いた。「ここ、お兄さんと初めて会った場所」
それ以外には何も分からなかった。少女はあまり話したがらなかったし、私もそれ以上聞こうとはしなかった。家まで送ろうかと言ったが、少女は頑なに首を横に振った。私は遠ざかる少女の背中に、こんな言葉を投げかけた。「今度、キョンイル病院に来るといいよ。無料コンサートがあるから」
次のコンサートがあることを信じたかった。私の友達は今、一体どこにいるのだろう。また楽しそうにギターを弾いてほしかった。私がそうだったように、そのギターで救われる人がいることを知ってほしかった。彼女を救うものが何か、私に分かったなら。私は教科書のページをめくった。あと1か月。また離れ離れになるのは嫌だった。
だから、液晶画面に表示された名前を見た時は、心臓が止まりそうになった。慌てて参考書を閉じて椅子から立ち上がると、何人かが驚いて振り返った。図書館の入口に向かったが、待ちきれずに電話に出た。「そっちに行ってもいい?」彼女の声は震えていた。「会いたい」
※3 6月18日頃まで万引き被害に悩まされていた
22年7月24日
事務室の扉のドアノブに手をかけようとすると、部屋の中から誰かの話し声が聞こえてきた。他にすることもなかった。私はカウンターのそばの椅子に座って待った。これはお兄さんのために、従業員の誰かが用意した椅子だった。だけどお兄さんは首を横に振った。勤務時間中この席に座ることはほとんどなく、お兄さんは足を引きずりながら立ち仕事を続けた。夕方には歩いて出前にも行った。代わろうかと尋ねたが、お兄さんは「すぐ近くだから。それに僕の友達の家なんだ」と断った。
いつだったか、アルバイトを始めてすぐの頃にも、こんなことがあったような気がした。久しぶりに会う高校の仲間への差し入れだと、笑いながら話していたお兄さんの顔が浮かんだ。また以前のように明るく笑ってほしかった。何かが、以前と決定的に違っていた。足の怪我のせいだろうか。それとも、連絡が取れないという例の友達のことだろうか。
私と彼女が待ち合わせたのは、電話が来た後すぐ、図書館の前の駐車場だった。病院の無料コンサートがあった日以来、共同制作者には会えていないのだと彼女は言った。お兄さんが探している友達と、彼女が探している青年は同じ名前だった。私はとうとう言ってしまった。「その人、マネージャーの知り合いかもしれない」
事務室の扉がぱっと開き、出てきたのはお兄さんだった。私は反射的に立ち上がり、頭を下げた。この間まで包帯が巻かれていたお兄さんの足首には、ギプスがつけられていた。お兄さんは私を見ると、まだ残っていたのかと驚いた顔をした。「店長に話があって」私が言うと、お兄さんは頷いて扉を大きく開いていてくれた。
アルバイトはもとも5か月の契約だったが、店長はすっかり忘れていたようだった。「それなら、あと1か月か」店長の言葉に私は頷いた。「あの、マネージャーには言わないで下さい」咄嗟にそう口にしたが、すぐに恥ずかしくなって誤魔化した。お兄さんに余計な心配をかけたくない。そんな考えを抱いたこと自体が恥ずかしかった。私は、お兄さんが自分のことを気にかけているとでも思っていたのだろうか。
事務室を出たとき、ちょうど店をあとにするお兄さんが見えた。足を引きずりながら、お兄さんはゆっくりと家(※4)に向かって歩いていた。このまま歩いて行けばすぐに追いついてしまいそうで、私はわざとソンジュ駅の方へ向かった。フラッシュライトで道を照らして歩く青年二人とすれ違っただけで、他に人はいなかった。目を瞬いて、暗い空を見上げた。なぜだか分からないが、お兄さんとはもう会えない気がした。彼が遠くへ行ってしまう気がした。離れるのは私の方のはずなのに、なぜだか涙が出そうだった。
※4 坂道を登ったところにあるアパート
22年8月30日
どこかで見たことのある顔だったが誰だか思い出せなかった。花束(※5)を抱えて立っているその青年は、幸せそうな顔をしていた。青年を通り過ぎて土手の方に降りながら、私は彼女の姿を探した。辺りを見回すと、すでに何人かが川辺に集まり、花火大会の始まりを待っているようだった。川の方から吹いてくる蒸し暑い風に乗って、人々の笑いさざめく声が耳に届いた。あの子とは、花火大会の時間に合わせて会う約束をしていた。明日、日本行きの飛行機に乗る。最後に伝えたいことがあった。
アルバイトの最後の日には、これまでお世話になった人たちに挨拶をして回った。社員の人の中には小さなメッセージカードをくれる人や、帰国してからも頑張れと言ってくれる人もいた。お兄さんがソンジュに帰ってきたらしいと聞いたのはその数日後だったが、どうして姿を消していたのか、どこへ行っていたのか、詳しいことは何も分からなかった。それでも良かった。足が少しでも良くなった彼が、また自由にダンスができるのなら、一緒に笑える友達がいる場所を見つけたのなら、それで良かった。
花火が打ち上がったのは、彼女の姿を見つけたその時だった。今年最初の花火が、まるでギターを背負った彼女の体を突き抜けるようにして空に打ち付けられると、小さな光の筋が視界をいっぱいに埋め尽くした。彼女も驚いたように振り返って空を見上げていたが、すぐに私に向き直った。彼女は笑っていた。空気を揺らすような花火の音の中で、彼女の声はよく聞こえなかったが、大きく開いた口の形だけでも笑っていることは分かった。私も手を振り返した。そして、彼女に向かって歩き出した。
※5 新しく開店したフラワーショップの配送サービス
結