同じなのに、違う。
家族とは。
家族とはなんだろう。
人の数だけそのイメージがあり、それぞれ違うものなのだろう。
5月31日 カフェゼミのテーマが移動する「家族」
身近なテーマだし、なんか楽しそうだな〜ワクワクと思っていた。でも実際終わってみると何だか不思議な気分だった。とにかく自分の考えは狭いなと感じた。
民族誌的ドキュメンタリーを観て、それぞれ離れたところにいても繋がっていて素敵だなぁと感じた。観ながら自分の家族についても少し考えた。その時はあまり考えずに、自分の家族も雰囲気的には同じ感じだなぁ、好きだなぁなんて思っていた。
でも、今思うとなんだかドキュメンタリーに出てくるそれぞれの家族観に自分の家族の一部分を当てはめて「あー、同じ同じ、私の家族もそう!」とか思って、同じであることが良いことだと無意識のうちに思っていたかもしれない。
家族は人生に1つしか経験できない。
世界に沢山の家族がある中で、その中の1つしか経験出来ないのだ。
何かに対して共感するには身をもって体験した事でないと、本当に共感することはできない、と思っている。経験していない家族が沢山あるから、他の人の家族の話を聞いてもピンとこないかもしれない。よく分からない!なんで?どういうこと?と聞いてしまうかもしれない。もしかしたら話したくない内容かもしれないのに。
経験がなくても想像しながら話すことが必要。想像して、といっても想像しきれないことはある。いろんな家族があるから。だけど、自分が知ってる家族のイメージだけで話を進めてしまうと、自分が気が付かない内に相手を傷つけているかもしれない。相手がどんな家族で、家族に対してどんな気持ちを抱いているのか、分からないから、家族の話は難しい。
人と話していて、家族の話になることはあんまりない。けれど、相手が少し落ち込んでいてその気持ちの原因が家族関係でありそうだと思った時、聞いていいのか、聞かない方がいいのか。もうそれはその人との信頼度とか関係性によるかもしれないけれど、少なくとも初対面で家族について語る、なんてことはあまりない。今回は家族についてのドキュメンタリーを観たからその感想をいうと同時に自分の家族について少し話した。自分の生活とかあまり詳細には話さない内容の時は、何かを仲介物として設定した方が直接的に相手に聞くよりも話しやすいかもなぁと思っていた。
いろんな「家族」
なんだか人と家族について真剣に語るのはあまりなくて不思議な感覚だったけれど、ドキュメンタリーを観終わって周りの人と家族とは何かとかを考えて対話した時に、自分の家族の定義が狭かったことに気が付いた。私は親と姉のことしか考えていなく、親戚のことは家族のイメージの中に一切無かった。色々振り返ってみて、確かにな、と思った。「家族」と言われて出てくるのは、血の繋がりだけではなくて、心理的な繋がっていないと家族のイメージに出てこない。むしろ血が繋がっていなくても心理的に繋がっていたら家族みたいな存在として、家族というワードと共に頭の中に浮かぶのだろう。そこで私のテーブルでは、家族と友達の違い・境界線はどこ、といった話が出ていたが、やはり分からない。考えていくうちに、父と母は血が繋がっていないけれど、結婚して「家族」になっているのだよなとか、それは心理的に繋がっているからか、とかぐるぐるした。
まだ分からない。
家族の話が出来るのは、自分の家族に好きなところがあったり、自信を持っているから?
でも話をしない人だって自分の家族に好きなところはあるかもしれない。気分的に話さないのかもしれないし、理由があって話さないのかもしれない。
多分、想像しきれない。
なんだか分からなくなって、疲れてしまった。
家族ってそれぞれ違うもので、それを語ることは難しい。みんながみんな語らなくてもいい。それぞれ自分の心地の良い空間をそれぞれ作っちゃえばいい。