縦横無尽な日本語って凄い
中学生で英語を習い始めて、こんなたわいの無い
冗談で笑い転げていた。
「Are you a fish?」と問いかけて
「No」と答えたら「アユは魚だろう」。
「じゃあYes」と答えたら、
「え~!お前、魚なの?」と追い詰める。
二人連れが食堂でどんぶり料理を注文する場面、
「僕はマグロかな」、「俺はウナギだ」という。
文字通りなら、マグロ君とウナギ君が
食事しているということになる。
食料品店の棚に「猫の缶詰あります」とある。
考えてみるとギョッとする。
とある家の垣根に下げてある看板には
「犬は糞をするな」、 意味はわかるが一拍おくと、
犬だって生きてるんだ、そんなの気の毒だろうと
言い返したくなる。
「こんにゃくは肥らない」 こんにゃく自身が
肥らないということではないことは誰でも分る。
日本語の自由度は他の国の言語からみても群を抜いている。
ところが幕末、黒船がやってきて欧米諸国の
進んだ文明に幻惑された。
大急ぎで技術や社会制度を採り入れないと
奴らに支配されてしまうという危機感を募らせた。
脱亜入欧の気運が盛り上がり、欧米の言語の
理路整然とした文法こそ根本にあるのだとして、
とうとう明治政府の初代文部大臣森有礼は
野蛮な日本語を廃止して
進んだ英語にすると言い出した。
大混乱の時代だったから、これを攻めるのは
忍びないことだが、
頭の中であれこれ考える時、
浮かべているのはいつも言葉であって、
言葉が変ると人間そのものが変ってしまうことに
気付いていない、とんでもない錯誤であった。
実は日本語は遙かに進化していたのだ。
漢字、カタカナ、ひらがなを駆使し、
余計な主語も人称代名詞も冠詞も
単数・複数も関係代名詞もみんな吹っ飛ばして、
簡潔に意味が通じるように磨き上げられた言語で、
アメーバーのような柔軟さがある。
雪深い東北の道ですれ違った女友だち、
冷たさが口に入らないように
「ドサ」「ユサ」と最小限の会話。
「どこに行くの?」「銭湯に行くのよ」
極寒の風景だけにことさら温かみを感じる、
大好きな話である。