曜変天目茶碗の手垢
冥土の土産だと一席18000円夫婦二人分を予約して
歌舞伎座公演を観に行った。
夕方の開演なのに、朝から家内は着物を整え、
指輪の選定に余念がない。
クリーニングに出したパリッとしたワイシャツも
ハンガーに掛けられていたので
久し振りの背広を着るはめになった。
銀座の歌舞伎座前は開演30分前だというのに
黒山の人だかりで着飾った元お嬢さんたちが
ご機嫌で歌舞伎座をバックにスマホ写真を撮り合っている。
建物の中に入ると弁当などの売店が賑わしく、
土産物売り場では人々が漁るように買い物している。
上の階にゆくと、国宝級の絵画や陶器などが展示され
相当な資力を思わせる。
まずは、有名な切られ与三郎の物語。
「え、御新造さんぇ、おかみさんぇ、お富さんぇ、
いやさ、これ、お富、久しぶりだなぁ」で始まる七五調の名台詞。
これを聴きたくてみんな来てるんだろうなあと納得。
ハッピーエンドで幕が閉じ、30分もの長い休憩となる。
周りは一斉に弁当を食べ始める。
場内に空腹を思い出させる匂いが漂う。
次は連獅子。舞台裏ではなんと新たな床を整える。
連獅子の舞が始まって判った。
床を足で打ち鳴らし、舞の切れ目で調子を上げる効果にしている。
家の廊下もぞんざいに歩くとドンドンと鳴る、これと同じだ。
獅子の長い毛を振る演技が延延と続きクライマックスに達する。
何か目頭が熱くなってウルウルしてきた。
連獅子がピタッと両手を拡げて見栄を切って幕が下りた。
観客はすっかり満足してさっさと帰ってゆく。
常連さんたちには、何から何まで勝手知ったる馴染みの場所なのである。
何百年も何万回も演じられて、掌で懇ろに愛撫されてきた
国宝曜変天目茶碗のような存在だと解った。
前の席にズラッと並んだ初老の欧米人の観光客たちには
絶対に判るまいと心配したが、
帰りがけのロビーでみんなが嬉しそうに興奮してしゃべり合っていた。
これを見て安心して通りすぎ、
お洒落なレストランで食事しようと銀座の街を歩き出した。