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解釈が見せ所
今から58年も前から続いている長寿音楽番組に
「題名のない音楽会」がある。
黛敏郎の落ち着いた司会ぶりと裏腹に企画内容はぶっ飛んでいた。
クラシック音楽は百年以上も昔の曲をあれこれ解釈しながら新味を楽しむ。
だから新曲はない。だからクラシックということか。
ある時、「指揮者なんて要らないんじゃないの?」というテーマで、
本当に指揮者なしでオーケストラが演奏した。
なんと、全く問題なく演奏された。
クラシックにはリズム楽器がない。
ティンパニーは打楽器だがリズムを刻んではいない。
ラテン音楽好きの私にはリズムなしは異様に感じる。
これは勝手な妄想だが、きっとヨーロッパの人々は
南のアフリカの音楽のリズムは下等で、はしたないと感じていて、
頑なに避けていたのではないだろうか。
それでも聴衆はリズムを感じていたいので、中心に指揮者を立てて
リズムを刻み、補っているのではないか。
指揮者の本当の役割は楽曲を解釈して楽団に伝え、
独自の曲想に仕上げることで、リハーサルでは指揮者と演奏者の間で
丁々発止のつばぜり合いがあるそうだ。
サザンオールスターズの名曲「いとしのエリー」をなんと
レイチャールズがカバーしたことがある。
同じ曲でも解釈が違うとこうも違うのかと感心したことがある。
サザンは湘南海岸、烏帽子岩を眺めながら、
離れていった彼女への辛い思いとよりが戻る望みを秘めている。
レイの描く恋物語は、ハーレムの荒れた鉄さび色の夜の街で、
壊れた恋を手に転がせて、いくつもの恋物語の一つとして
追想する風情を感じる。
音楽は解釈が見せ所ということか。