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科学の限界
養老先生は、自分なんて元々ないんだから、
自分探しなんて意味ないよと云い、
猫のように無為に生きるのが自然なことだよとニヒルに微笑む。
福岡先生は、全てはエントロピー、無秩序に拡散するのが真理だから生も死も無く動的平衡の流れのまにまに、ほんの一瞬存在しているのが自分だと
冷徹に片笑む。
それぞれの専門の科学の論理から人間という現象を同定しているように
見えるが、何のことはない800年も前に著わされた鴨長明「方丈記」の
ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらずの一節から
一歩も前に出てはいない。
生命とは何か、自分はどこから来て、どこへ行って、どうなるのかについての探求は、最初から投げてしまっている。
生命の発現についての実験は、1828年にドイツのウェーナーが
無機物から有機物を合成したところから始まり、
1920年にはロシアのオパーリンが原始の海の成分のスープをつくり、
タンパク質が自己増殖するか実験した。
1953年には、アメリカのミラーが原始の大気に注目してアミノ酸の
合成から自己増殖を実験した。
日本では2001年に関連の実験で野依先生がノーベル賞を授賞している。
35億年前の原始の地球の環境を再現して、生命体の元となるアミノ酸が
できるところまでは解っているが、どう工夫しても自己増殖する
生命体のかけらさえ手にできていない。
科学で生命の仕組みを実証できない大きな空白は、
結局、神的、霊的なスピリチュアルで埋めたくなるのは
自然なことなのだろう。